天才だが説明は下手だったガロア
ガロアは数学の天才でしたが、どうも自分の考えを説明することは下手だったようです。
それは彼の数学に関する考え方が先進的すぎて、ほとんどの人に理解できなかったことも原因があったのでしょう。
志望学校の口頭試験では、面接官に回答を理解してもらえず、キレて黒板消しを投げつけて落第したと言われ、第一線の数学者に送った論文は説明がよくわからないと突っ返されてしまったといいます。
残念なことに彼は生前正しく評価してもうことは出来なかったのです。
壮絶な死因
ガロアの生涯を聞いたとき、誰もが最も驚くのが彼の死因です。
ガロアは19歳のとき決闘によって命を落とすのです。
決闘と言われても今の時代あまりピンとこないかもしれません。しかしガロアは実際に、一人の女性を巡って銃の決闘をすることになってしまい、その勝負に敗れて死んでしまうのです。
この決闘については陰謀であったという説があります。ガロアは父の影響で政治的な活動に傾倒しており、当時のフランスを支配していた王制に対してかなり批判的でした。
これを快く思わない者たちによって理不尽な決闘を申し込まれる状況に追い込まれたというのです。
真実がどうであったにせよ、この決闘相手は銃の名手で、ガロアは決闘の前から自分が勝負に敗れて死ぬことになると自覚していました。
そこで彼は「僕にはもう時間がない」という走り書きと共に、決闘前夜に徹夜で現在ガロア理論と呼ばれている革新的な数学のアイデアを手紙に書きまとめ、親友シュヴァリエへ託したのです。
それはかなり断片的で読み取ることも困難な走り書きや殴り書きも多かったと言われます。
ガロアはそれを書き残した後、決闘に向かいそこで19年という非常に短い人生の幕を下ろしました。
残された親友のシュヴァリエは、彼の数学のアイデアをなんとか手紙から読み解き、それを論文にまとめて発表しました。
この親友の成した仕事もかなり驚くべきものです。評価されることの少なかったガロアですが、しかしきちんとした理解者も存在していたのです。
ただその後、シュヴァリエはガロアの論文を発表しますが、難解過ぎるその理論はすぐには理解してもらえなかったといいます。
しかし、現代ガロア理論は広く世界へ知れ渡り、ガロアは偉大な数学者の一人として、歴史にその名を記される存在になっています。
たとえ思うように評価が得られずとも、死が目前に迫ろうとも、自らのアイデアをきちんと世に書き残したガロア。彼が天才であるかどうかに関係なく、そんな彼の生き様には数学以外にも学ぶべきところがたくさんあります。
【フェルマーの最終定理】数学を知らなくても分かるよう解説!
この記事は2019年5月公開の記事を加筆修正したものです。
参考文献
ガロアが広げた数学の自由 —革命を志した青年が起こした数学上の一大革命—
フェルマーの最終定理 (新潮文庫) サイモン シン (著)
La vie d’Évariste Galois
元論文
Le mémoire d’Évariste Galois sur les conditions de résolubilité des équations par radicaux (1831)
ライター
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。