江戸時代は現代とは命の重さが異なっていたこともあり、仇討ちや無礼討ちといった行為も合法的に行われていました。
これらは時代劇でもよく取り上げられており、中には「忠臣蔵」のようにこれが主軸となっているものさえありますが、実際の仇討ちや無礼討ちは時代劇とはかなり異なっています。
果たして江戸時代の仇討ちや無礼討ちはどのようなものだったのでしょうか。
本記事では仇討ちや無礼討ちの手続きや実情について紹介していきます。
なおこの研究は、谷口眞子(2005)「実力行使からみた近世社会と法規範」早稲田大学文学学術院博士論文に詳細が書かれています。
成功率数パーセントの仇討ち
仇討ち(あだうち)は主君や直接の尊属(親や兄など)を殺害した者に対して、法に則って復讐を行うというものです。
江戸時代の殺人犯は通常、奉行所などといった司法機関にて裁きを受けることになっていました。
しかし江戸時代の捜査技術は現代と比べて未熟の上、幕藩体制もあって全国的な捜査を行う難易度も高く、犯人の正体がわかりながら身柄を拘束することができない事例が多々あったのです。
その為遺族が処罰を代行するという形で、仇討ちが行われていました。
似たようなことは日本だけでは無く、この時代なら世界中でよく見られますが、日本の特殊な点は単なる私刑ではなく法律上の制度として保障されていたことです。
そのため江戸時代に仇討ちを行う場合は、主君や奉行所から「仇討ちをする」という許可を貰ってから行う必要がありました。
しかし必ずしも許可を貰わなければ仇討ちをしてはいけないというわけではなく、無許可で仇討ちをしたとしても後の調査で正当性が認められれば事後承諾で許可されることもあったようです。
また仇討ちは表向き武士にしか認められていませんでしたが、百姓や町人が仇討ちをすることもしばしばあり、これらの仇討ちは黙認されていました。
そんな仇討ちですが、成功率は数パーセントとも言われており、非常に難易度が高かったとされます。
先述したように犯人の正体がわかっていたとしても、仇討ちをするためには犯人の居場所を突き止めなければなりません。
そのため仇の居場所がある程度わかっていた赤穂浪士のような例外を除けば、仇討ちの第一歩は犯人の捜索から始まったのです。
交通機関が発達し、監視カメラが町中に張り巡らされている現代ですら半世紀近く逃げ続けた指名手配犯がいることを考えれば、これらの文明の利器のない時代においてたった一人で犯人を突き止めることがいかに困難かわかるでしょう。
また仇討ちと似ているものとして、妻が不倫をした場合その妻と不倫相手を殺害する女敵討ち(めかたきうち)というものもありました。
女敵討ちは武士だけではなく庶民がすることも公に認められていたのです。
現代の感覚だと不倫で殺されるのはいささか罪が重すぎるかのように思えますが、当時は不倫が公的に証明された場合は双方ともに死罪が言い渡されていました。そのため女敵討ちだけがそこまで厳しいわけではありません。
また当時も示談による離婚や慰謝料の支払いで不倫を解決する場合もあり、不倫が発覚したら絶対に死ぬというわけではありませんでした。
一方武士の場合も離婚や慰謝料の支払いという形で穏便に済ませるケースもありましたが、ひとたび武士社会の間で妻の不倫が発覚した場合は、社会的に強制される形で女敵討ちを強いられることになっていたのです。
これによって武士は「妻を寝取られた男」という汚名をそそぎ、家の名誉を回復させなければなりませんでした。