事件発生
そして運命の日、昭和26年4月2日、午前11時15分。健吉は「京都に就職口を得た」と東京から母を連れて上洛。京都大学・文学部校舎の入り口階段で、突如、母の首を絞め、持っていた銅製仏像で殴打し殺害。割れた頭蓋から、竹串5本で脳を掻き出した。
さらに死体を全裸にした上で、その両足を縛り、土木学教室前までの約100m、母の死体を引きずって歩いた。頭蓋の割れた全裸女性を引きずる男に構内は一時騒然。緊急通報により駆けつけた警官が健吉を逮捕した。

(画像=箕輪健吉。朝日新聞東京版朝刊1951年4月3日付、『TOCANA』より引用)
【三輪健吉の供述】
逮捕された健吉は「精神鑑定をしてほしい」「正気でやった」「死体は特殊な状態だから俺と一緒に現場写真を写せ」などと意味不明な供述を繰り返した。事情聴取に当たった警察と京大教授らに、健吉は驚愕の動機を語る。
「母は水爆で狙われており、ゴビ砂漠で惨殺される、木端微塵にされるよりは自分の手で安らかに死なせたかった……」なんと健吉はこの凶行を親孝行であったと主張したのだった。その後、健吉は、拘置所内で壁にぶつけた自分の頭の傷に箸を刺して脳を取り出そうとするなど奇行が絶えず、結局、回復することなく自殺した。

(画像=朝日新聞大阪版朝刊1951年4月3日付、『TOCANA』より引用)
江戸川乱歩の関与?
事件発生の数年前、昭和22年、作家・江戸川乱歩は「探偵作家クラブ」を結成し、初代会長に就任した。卒業し、無職となった健吉は、昭和25年に上京。乱歩にクラブ入会を頼み込んでいた。「三輪君は、推理小説作家志望者で一年ほど前に私が紹介し、同行者としてクラブに入会したが、作品はなく、言動もおかしかった」と、のちに当時の新聞取材に応えている。
果たして入会を勧めただけなのだろうか。人気作家として、何かのネタになると思った可能性はないだろうか。真相は闇の中である。