昨年世界中で大ヒットし、数々の映画賞を受賞、遂に日本でも3月29日に公開が始まった「オッペンハイマー」。クリストファー・ノーラン監督の同作品は、第二次世界大戦中の原子爆弾製造計画「マンハッタン計画」を主導したロバート・オッペンハイマーを題材にした映画ですが、今回は、オッペンハイマーの生い立ちとニューヨークのマンハッタンにある、彼が子どもの頃に住んでいたアパートなどを紹介します。
オッペンハイマーって?
J・ロバート・オッペンハイマー(1904年4月22日~1967年2月18日)は、ニューヨーク市マンハッタン区のアッパーウエストサイドで生まれました。両親は、ドイツから米国に移住したユダヤ系移民で、父親は繊維輸入業者として財を成したジュリアス・オッペンハイマー、母親は画家のエラ・フリードマン・オッペンハイマー。
オッペンハイマーの名前の初めについているJは、ジュリアスの頭文字で、父親から受け継いだものです。出生証明にもそのように記されていますが、彼は「Jは単なるJで、短縮したものではない」と否定し続けていたそうです。欧米では、親と同じ名前を子供につける事は珍しくはありませんが、生きている親族の名前を子供につけることは、ヨーロッパのユダヤ教の伝統に反する事。それが理由で、彼は「J」が父親の名前に由来する事を否定したのかもしれません。オッペンハイマー家は、ユダヤ教徒とはいっても戒律を守らずに生きる世俗派でしたので、伝統を無視して父親と同じ名前を子供につけてしまったのかもしれませんね。
オッペンハイマーは孤独で早熟な子供で、鉱物学や詩を書くのが好きだったそうです。ハーバード大学で化学を専攻した彼は、3年間で学士号を取得。1925年に首席で卒業した後、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学びました。ここで、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていきます。1927年に、ドイツのゲッティンゲン大学で量子物理学の博士号を取得。いくつかの研究機関での研究を経て、カリフォルニア大学バークレー校の物理学科に入り、1936年に正教授となりました。理論物理学者となったオッペンハイマーは、「ボルン・オッペンハイマー近似」など、広範な領域にわたって大きな業績を残していますが、特に第二次世界大戦中に、ロスアラモス国立研究所の初代所長として「マンハッタン計画」を主導し、原子爆弾開発の指導者的役割を果たした事で、「原爆の父」として知られるようになります。
マンハッタン計画の名の由来
ところで、原爆の開発が行われたのはニューメキシコ州のロスアラモスであるのに、なぜ「マンハッタン計画」という名称がついたのでしょう。それは、オッペンハイマーがマンハッタンで生まれたからというわけではありません。マンハッタン計画の命名者は、映画の中でマット・デイモンが演じているレスリー・グローブス大佐です。
実は、マンハッタン計画の最初の本部は、ロウアー・マンハッタンにあるシティホールパークの向かいにあるオフィスビルでした。その他の重要な仕事は、ブロードウェイ233番地のウールワース・ビルにある表向きは別の事業を行うダミー会社のオフィスで、科学者たちによって行われていました。また、計画初期の研究の多くはコロンビア大学で行われました。
大佐は、この超極秘プロジェクトが人々の関心を集めないように、シンプルな名称にしようと「マンハッタン・エンジニア・ディストリクト」という名称に決めましたが、長すぎるということで、いつしか「マンハッタン計画」と呼ばれるようになりました。その後、本部はマンハッタンからテネシー州オークリッジに移転しました。
オッペンハイマーが子どもの頃に住んでいたアパート
オッペンハイマーが生まれた1904年、彼の両親はマンハッタンの西94丁目250番地に住んでいました。ブロードウェイと94丁目の南西角にあったこの建物が新しいアパートに改築され、2008年にこのアパートの名称を決めるために住民の間で投票が行われた際には、「オッペンハイマー」という名前も候補に挙がりました。しかし最終的に、同じく元住民で参政権運動家だったエリザベス・キャディ・スタントンにちなんで「ザ・スタントン」と命名されました。
その後、一家は西88丁目のリバーサイド・ドライブ155番地の新しいビルに引っ越しました。一家は裕福な特権階級で、メイドや調理人など、3人の使用人がいたそうです。12階建てのビルの11階にあるアパートには、ハドソン川が見える部屋が10室、バスルームが3つ、クローゼットが16個もあり、壁にはオリジナルのピカソの絵画が1点、ルノワールが1点、ゴッホが3点とレンブラントの銅版画が飾られていたといいます。
オッペンハイマーが住んでいた頃には、1フロアにとてつもなく広いアパートが2戸しかありませんでしたが、第二次世界大戦後に分割され、1フロアに5戸のアパートができました。
このビルは、オッペンハイマーが住んでいたという事よりも、テレビのシットコム「ウィル&グレイス」のウィル・トゥルーマンとグレース・アドラーのアパートの外観として使われた事で有名になり、訪れる観光客もそちらが目当ての方が多かったそうです。
ちなみに、88丁目を挟んだ北側のアパートは、シットコム「30ロック」でティナ・フェイ演じるリズ・レモンが住むアパートとして使われ、こちらも観光客がロケ地巡りで訪れる場所となっています。
原爆に耐えた被ばく親鸞聖人の像
オッペンハイマーが育った家から17ブロック北上しただけの同じリバーサイド・ドライブの331番地、マンハッタン計画が最初に始まった場所であるコロンビア大学から数ブロック離れただけの閑静な住宅地の一画に、傘をかぶり、杖を持つ親鸞聖人のブロンズ像が建っています。この像は、もともとは広島にあったものでした。
1945年8月6日午前8時15分に広島市に原爆が投下された時、この像は爆心地から2kmほどの三滝聖ヶ丘に立っていました。広島市を向いていたため、正面から原爆の熱線を浴びて、銅像は全体が赤く焼けただれています。原爆の衝撃を生き延びたこの像は、1955年9月11日にニューヨーク市に運ばれ、平和の象徴として静かに佇んでいます。
文・写真・ナツコ・H/提供元・たびこふれ
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