映画「オッペンハイマー」がこの11日の第96回アカデミー賞で、作品賞や監督賞など最多7部門を受賞した。米国では昨年7月に公開されて、今般のオスカー7部門の受賞に見るような好評ぶりだ。が、日本では誰が何を憚ったか、ようやく今月29日から公開されるようだ。

もちろん私も未見だが、Wikipediaには「赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年、核兵器技術など機密情報の漏洩を疑われたオッペンハイマーが公聴会で追及を受けるところから物語が始まる」とある。配役を見るとソ連の「原爆スパイ」の名前は「シュバリエ」と「エルティントン」の二人しか見当たらない。

となると、この「物語」の主たるテーマは別にある様だが、本稿ではオッペンハイマーと「原爆スパイ」との関連を書く。オッペンハイマーの講演録「原子力は誰のものか」(中公文庫、以下「講演録」)と「ヴェノナ」を参考にした。

「ヴェノナ」は、1930~40年代にモスクワと在米スパイとの暗号通信約3000通を解読した米国の極秘作戦の名称だ。筆者は400頁ほどの原書を取り寄せて約1000時間掛け、辞書と首っ引きで原稿用紙800枚に翻訳したことがある。16年のことだったが、実はすでに邦訳が出ていた。

「講演録」

「講演録」の「付録」にある、訳者の手になる「『オッペンハイマー追放』の経過」はこう書き出されている。

オッペンハイマーが、ニコルズ米国原子力委員会事務総長立ち合いの下で、国家機密からの遮断に関する行政処分を、原子力委員会委員長ストローズから口頭で伝達されたのは、1953年の12月21日のことである。

「講演録」は45年11月から56年9月までに彼が行った講演と論文および「付録」を収録している。筆者はむしろ「付録」のオッペンハイマー宛の「ニコルズ少将の書簡」(53年12月、「書簡」)とニコルズ宛の「オッペンハイマーの弁明」(54年3月、「弁明」)に興味がある。

なぜなら「書簡」と「弁明」に名前が出てくる、オッペンハイマーとの関係が疑われる「原爆スパイ」らの活動は、当時はまだ明確な証拠が不足していたはずだ。が、95年に公開された「ヴェノナ」の記述によっては、オッペンハイマーと「原爆スパイ」との関りが裏付けられる可能性があるからだ。

「書簡」と「ヴェノナ」の両方に名がある「原爆スパイ」は、弟フランク、アイザック・フォルコフ、スティーヴ・ネルソン、トマス・アディス、ルディ・ランバート、ジョセフ・ワインバーグ、クラレンス・ヒスキー、ハーコン・シュバリエ、ジョージ・エルティントン、ジョバンニ・ロマニッツ、ポール・ピンスキーの11名だ。

「弁明」でオッペンハイマーは、この11名について大要以下のように述べている。

私はランバートとアディスとスペイン内戦*の支援を通じて知り合った。医学者のアディスとは友人になり、フォルコフを紹介された。アディスは米国共産党(CPUSA)と関係があるフォルコフに資金を援助していたが、37~38年当時、私は共産主義が危険だとは考えていなかった。

*筆者注・・スペインでの共和国側とフランコ反乱軍との内戦に共和国側で参戦した義勇兵(国際旅団orリンカーン大隊)には、コミンテルンの呼び掛けで各国から多くの共産主義シンパが参加し、万単位の戦死者を出した。後にそのパスポートの多くが偽造され、KGBに隠れ蓑として利用された。

弟フランクとその妻ジャッキーは37年にCPUSAに入党したことを私に話した。41年秋にフランクはバークレーの放射線研究所に勤務したが、もう党員ではないといっていた。46年元旦に弟の家族を訪ねた時、弟宅への訪問者の中にピンスキーがいたかも知れないが、偶然だった。

シュバリエ夫妻は、私が結婚した40年当時交際していた物理学者や大学職員の中にいた。43年初めごろ私を訪れたシュバリエが、エルティントンから技術的な情報をソ連の科学者に伝えることができるか聞かれたとの話をして来たが、私は強く拒否した。彼が私の仕事に気付いていないと確信している。

大学院生のワインバーグは知っているが、ヒスキーは知らない。ネルソンはスペイン内戦を通じて妻と親しく、家族で何回か訪ねて来た。が、41年以降は会っていない。機密に関わる私の仕事についてネルソンと議論したことはない。ワインバーグもロマニッツもロスアラモスに雇われたことはない。