「紅茶に浸したマドレーヌの香りから、遠い昔の思い出がよみがえる」

これはフランスの文豪マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』に登場する描写です。

この表現をきっかけに、ある特定の匂いから無意識に過去の記憶が想起される現象を「プルースト効果」と呼ぶようになりました。

プルースト効果は何も特別なことではなく、誰もが経験していることです。

例えば、焼きたてのクッキーの香りから幼少期に母親とお菓子作りをした光景が蘇ったり、ある香水の匂いから初めて付き合った人を思い出すことがあるでしょう。

では、なぜ「匂い」は意図せずして「記憶」を甦らせるのでしょうか?

その脳科学的なメカニズムについて紐解いていきます。

匂いはどうやって記憶を呼び覚ますのか?

「匂い」と「記憶」は古くからその密接な関連性が指摘されており、これまでに多くの研究がなされてきました。

そのおかげで、匂いをきっかけに昔の思い出が想起される脳内メカニズムはかなり事細かく解明されています。

まず、私たちが感じる匂いは、原因となる分子が鼻の中にある嗅覚受容体と結びつくことで生じます。

すると嗅覚受容体は、その匂い信号を脳の先端部に位置する「嗅球」という場所に伝えます。

嗅球は受け取った匂い情報をもとに、それが何のどんな匂いであるかを分析し処理する領域です。

こうして匂い情報は嗅球によって処理された後、感情や記憶をコントロールする扁桃体および海馬を含む「大脳辺縁系」に送られます。

赤色が大脳辺縁系(limbic system)の位置
赤色が大脳辺縁系(limbic system)の位置 / Credit: ja.wikipedia

ここが重要なポイントです。

通常、私たちの五感のうち、視覚・聴覚・触覚・味覚の情報は脳の中央にある視床を通って、理性や知性を司る「大脳新皮質」に送られます。

そのため、これらの感覚情報は頭を使って理知的に処理されます。

ところが匂い情報だけは感情や記憶を司る脳領域へと直接的に送られるのです。

そのうちの扁桃体はアーモンドのような形をした場所で、楽しい・悲しい・嬉しいなどの感情的な出来事に関連づけられる記憶を形成し、貯蔵する役割を担います。

さらに海馬は”記憶の司令塔”と呼べる場所で、日常の出来事や学習したことを記憶としてファイリングする働きをします。

それゆえ、匂い情報が扁桃体や海馬を刺激することで、感情を伴った出来事の記憶が無意識的に呼び起こされやすくなるのです。

脳内イメージングを行った先行研究でも、嗅覚系と海馬のつながりは他の感覚系よりも遥かに強いことが証明されています(Progress in Neurobiology, 2021)。

匂いで思い出すのは「エピソード記憶」

また、匂いはすべてのタイプの記憶を呼び覚ますわけではありません。

匂い情報は感情を司る扁桃体を刺激するので、想起される記憶は自然と感情を伴った出来事の記憶、つまり「エピソード記憶(自伝的記憶)」となります。

いわゆる、個人的な思い出の記憶です。

匂いが想起させるのは感情の伴ったエピソード記憶(自伝的記憶)
匂いが想起させるのは感情の伴ったエピソード記憶(自伝的記憶) / Credit: canva

一方で、感情の伴わない「作業記憶」や「意味記憶」は匂いによって想起されません。

作業記憶とは例えば、友人の電話番号を聞いて、その数字を覚えたままメモするときなどに使う一時的な記憶であり、意味記憶とは「地球は太陽のまわりを1年かけて公転する」というような知識に関する記憶です。

これらは感情とは関係ないので、匂いによって刺激されません。

ですから、香水の匂いで友人の電話番号を思い出したり、コーヒーの香りで急にニュートンの運動方程式が甦ることもないでしょう。

匂いによって想起されるのは常に、個々人の人生経験と深く結びついた出来事の記憶となるのです。

以上がプルースト効果が起こる脳内メカニズムとなりますが、これと別に最新の研究では、匂いによる記憶想起がうつ症状の治療にも役立つ可能性が示されています。

それを最後に見ておきましょう。