※本記事は2020年の記事の再掲です。
★気鋭の教育学者・阿部憲仁がシリアルキラーの実像に迫る「凶悪犯プロファイル」シリーズ★
カーマイン・パーシコ Jr.は、ニューヨーク5大ファミリー(マフィア一族)の一つであるコロンボファミリーのドン、1973年から2019年の46年間、その大半を刑務所内からファミリーを指揮統率していた。その隙のない、計算し尽くされた動きから「スネーク」とあだ名されていた。

■カーマインの人生
父親は弁護士事務所の速記士であった。16歳で高校を中退してから地元のギャングに入り、相手を殴り殺してコロンボファミリーの元となるプロファチファミリーにスカウトされ、金貸し、裏帳簿の付け方、強盗、ハイジャック等、マフィオソ(マフィアメンバーのこと)としての基礎を学び、やがて、一家内で最も凶暴で知られるジョーイ・ガロ一派に加わる。

当時、ニューヨークにはアナスタシアが率いる「殺人株式会社(Murder Inc.)」が幅を利かせていた。それを面白くないと思っていた若頭(Under Boss)のカーロ・ガンビーノは、他組織のボスであるプロファチとジェノビーゼに相談し、アナスタシア殺害の承諾を得た。1957年、アナスタシアがマンハッタンの行きつけの床屋にいたところを、バンダナで顔を覆った男2人が襲撃した。この事件でアナスターシャは射殺され、ニューヨークのマフィアの勢力図に大きな変化がもたらされた。
当時、組員から金を搾り取るプロファチは子分たちにとって面白くない存在であった。その中心人物が狂犬ジョーイ・ガロであり、カーロ・ガンビーノとルッケイジ―ファミリーのドンであるトミー・ルッケイジ―はガロの後押しをした(第一次コロンボ戦争)。
ガロはプロファチの幹部4名を拉致したが、最終的には和平に向けて解放。この事を面白く思わなかったプロファチは、カーマインにガロの兄弟の殺害を依頼。ひもを使い首を釣るす形で殺害しようとしたが、あと少しのところで警察の邪魔が入り未遂に終わる。この時のカーマインのガロへの裏切りが、彼のニックネームである「スネーク」へとつながる。

その後、カーマインは暗殺のターゲットとなる。車の爆破や隣接するトラックからの銃撃(カーマインは顔面に撃たれた銃弾を口から吐き出したという)等々、数々の暗殺計画が企てられたが、最終的にプロファチは引退し、コロンボファミリーと改名する。カーマインを高く評価していたコロンボは、当時刑務所に週間中だった彼をキャプテンに昇格させる。
出所後、カーマインは労働組合、恐喝、高利貸、違法ギャンブルと様々な業種に手を広げていった。中でも「依頼殺人」は有力なビジネスの一つであり、カーマイン一派はコロンボ一家の中でも最も金回りの良い一派になっていった。が、元現役マフィアであるバラキが初めて証人に立ったことで知られる裁判で立件され、8年の刑を言い渡される。
1971年イタリア系アメリカ人市民同盟の演説中、コロンボが銃撃される。辛うじて命は取り留めたものの、体はマヒし現役を退くこととなった。犯人はガロが受刑中に友好関係を結んでいた黒人であり、その場で射殺された。ガロのメッセージは「自分の釈放時に1000万の慰労金を支払え」というものだった(第二次コロンボ戦争)。
ガロ一派は引き続きコロンボ執行部の命を狙い続けた。結果、代行は引退し、すべてをカーマインに委ねた。
カーマインはガロ一派との調整を図るフリをしながら、誕生パーティーで盛り上がる中、ガロを射殺。
その後、カーマインを含むコロンボ一家の多くの幹部が裁判にかけられた。何度かは躱したものの、最終的には諸々の罪状が加算され、合計139年という実質上の終身刑が言い渡された。しかし、カーマインは塀の中からもコロンボ一家のボスとして君臨し、判事の殺害等を含む数々の命令を指揮した。
2019年3月7日、「不死身」とうたわれたカーマイン=スネークは85歳の生涯を閉じた。