うまれて初めて音を聞いた子供たち
遺伝子を届ける配達人には、感染しても無害なウイルス(アデノ随伴ウイルス)が使われました。
このウイルスは感染すると自分の遺伝子を人間の細胞に送り込む性質があります。
研究ではこのアデノ随伴ウイルスの遺伝子を操作して、正常なオトフェリン遺伝子を組み込みました。
こうすることでウイルスが感染すれば、子供たちの耳奥の細胞に正常なオトフェリン遺伝子を配送できます。
ただオトフェノン遺伝子はかなり大きな遺伝子であったためにアデノ随伴ウイルスでは運びきれません。
そこでオトフェノン遺伝子は2分され、2種類のウイルスベクター(配送パッケージ)に組み込まれました。
ウイルスが細胞に感染すると、2種類の遺伝子が合わさって、完全なオトフェノン遺伝子として働くことが可能です。
たとえるなら「膨大な量となった高性能冷蔵庫の設計図」を運ばなければならないときに、冷蔵庫部分の設計図と冷凍庫部分の設計図を別々の配送パッケージ(ウイルスベクター)に入れて運ぶのに近いでしょう。
何気ない手法に思えますが、設計図を分けてウイルスに運ばせるという手法(デュアルウイルスベクター)は画期的な技術として高く着目されています。
そしてなにより、効果も抜群でした。
手術を受けた6人のうち5人は4~6週間後に聴力が芽生え始めます。
そして4カ月後には重度の難聴だったものが、軽度から中度の難聴にまで改善しました。
5人のうち3人は人工内耳を埋め込まれていましたが、機械のスイッチをオフにした状態でも音声を認識し、会話でコミュニケーションができるようになりました。
特に2人では音を全く知覚できない状態から、うまれて初めて音を聞くことに成功しました。
回復した子供たちはいまや、父親の声、車の音、髪をハサミで切る音さえも聞くことが可能です。
同様の治療を受けたアイサムさん(11歳)も難聴が改善し、音がない世界から音がある世界を知ることができました。
(※アイサムさんの治療は米国のフィラデルフィア小児病院:CHOPで行われました)
アイサムさんはニューヨーク・タイムス紙が行ったインタビューに対して「嫌いな音はないです」「みんないい」と感想を述べました。
現在、小児期の難聴を引き起こす150以上の遺伝子が知られています。
研究者たちは「今回の遺伝子治療はそのうちの1つを治療したに過ぎませんが、使用された技術を使えば、他の遺伝子疾患にも対処できる可能性がある」と述べています。
遺伝子疾患は目、耳、鼻、口、皮膚、神経、脳細胞、骨髄、筋肉などさまざまな組織にみられます。
もし遺伝子治療がもっと発展していけば、あらゆる先天的な疾患を治療できるようになるかもしれません。
あるいは治療とは別に、筋肉を高める遺伝子、知能を増強する遺伝子、さらには穏やかな性格にする遺伝子などを筋肉や脳細胞に取り込めるようになるかもしれません。
SF的な未来をここから想像するなら、増強したい能力別の遺伝子治療薬というものが登場するかもしれません。
ただ細胞に注入した遺伝子を選択的に取り出す方法はまだ存在しないため、こうした効果は一時的なものではなく永続する可能性があります。試しにちょっと使ってみるというにはリスクが高いかもしれません。
参考文献
Children’s Hospital of Philadelphia Performs First in U.S. Gene Therapy Procedure to Treat Genetic Hearing Loss
元論文
AAV1-hOTOF gene therapy for autosomal recessive deafness 9: a single-arm trial
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。