目次
「論語」から生まれた言葉
 ・一を聞いて十を知る
 ・過ぎたるは猶及ばざるが如し
まとめ

「論語」から生まれた言葉

「論語読みの論語知らず」とはどういう意味?読んでるのに知らないことをあらわすとはどういうこと??
(画像=『FUNDO』より引用)

中国やその周辺国に大きな影響を与えた論語。
この論語から派生した語は多くあります。

ここからは、その中からいくつかの言葉をご紹介します。

一を聞いて十を知る

「一を聞いて十を知る」は、物事の一部やはじまりの部分を見聞きしただけで、その全てを察したり理解できる人物の例えです。
非常に優れた人や、その道に精通した人、あるいは天才に対して使われることが一般的です。

この言葉は、論語の中で孔子が優れた弟子を評する際に違う弟子が発した言葉として伝わっています。

ある時、孔子は子貢という弟子に「君と回(その場にいない孔子の弟子)、どちらが優れているか」と聞きました。
子貢はすぐさま「回と私では比べ物になりません。」と答え、更にこう続けました。
「私は一を聞いて二を知る程度ですが、回は一を聞けば十を知ることができます。」
つまり、回という弟子がいかに優れているかを例える際に用いられたのが「一を聞いて十を知る」なのです。

ちなみに、孔子は子貢の回答を聞き、「そう、その通りだ。そして私も回には到底及ばないよ」と返しています。
回という弟子は、孔子もその才能を認めた優れた弟子なのです。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

何事も程度が重要であり、やりすぎるものいけないし、少なすぎたりするのもよくない、という例えで用いられるのが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。
この言葉は、論語の中で孔子が2人の弟子のどちらが優れているかと尋ねられた際の返答が由来となっています。

ある時、「弟子の師と商はどちらが優れているか」と孔子に対して質問をした人物がいました。
その時孔子は「師はやりすぎるきらいがあるが、商は控えめすぎる」と返しました。
「それは師がより優れているという事でしょうか?」と質問を重ねると、「やりすぎるのも控えめすぎるのもどっちもどっちだ」と返されました。

才能に鼻をかけてもしまうのもよくないし、謙虚すぎるのもよくない。
中庸であることが重要なのだ、という事を説明するためのくだりとして書かれています。

まとめ

「論語読みの論語知らず」は、学んだ知識を、実践に移せていない人の例えとして用いられる言葉です。
勉強しただけでそれを全く活かせていないねという強い皮肉が込められています。

この言葉は、儒教を中興した朱子という人物が論語の序説として書き加えた一文が由来となっています。

提供元・FUNDO

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