色とりどりのフルーツが盛り付けられ、まるでアート作品のようなタルトやケーキを世の中に発信し続けていることで知られる「キル フェ ボン」。それらのクリエイティブはどのように生み出され、また、ビジネスとしても多くの顧客に支持されるためにどのような工夫に取り組んでいるのでしょうか。

同ブランドを運営するキルフェボン株式会社で、商品の企画・開発で中心的な役割を果たす営業企画管理本部副本部長の柿畑江里さんにキル フェ ボンのタルトやケーキ作りの舞台裏、自身のキャリアの歩みを聞きました。

転機は22歳、自ら店長に立候補

―――現在、キル フェ ボンのタルトやケーキの企画・開発をリードするポジションにありますが、会社に入社されるまでどのような経緯があったのでしょうか。

キル フェ ボンは静岡県に本社を置き、1991年に1号店がオープンし、現在、全国に11店舗を構える洋菓子店です。私は短大卒業後、まだ1号店の1店舗しかなかった時代にアルバイトで働き始めました。

1年後には社員として入社することになりますが、アルバイトからでも働きたいと思ったのは、自分が一番好きだったお菓子づくりを自分の職業にしようと考えたからでした。

そう考えたのは、学生時代、バレンタイン・デーにチョコレート菓子を手作りした原体験が影響しています。自分で手作りすることも楽しかったのですが、さらに贈った相手に喜んでもらえた経験が自分には特別なものになりました。

そこから、やりがいを見出し、職業にしようと考えました。

―――社員となってからは、どのような変化があったのでしょうか。

アルバイトで働き始めて1年ほどが経ち、2店舗目のオープンと同じ頃、正社員になりました。

まだ規模の小さい会社だったので、レシピをもとにしながらタルトを作る日もあれば、接客で店頭に立つ日もあるというように、いろんなことを任せてもらえました。マネジメントという言葉もよく分からないまま、アルバイトの方の指導なども担当しました。

転機があったのは、22歳の時のことです。当時、東京初出店として現在の青山店がオープンすることが決まった際、「店長をやらせてください」と立候補しました。

「キル フェ ボンが誰よりも好きなのは自分だ」という思いがあったので、大きい舞台で先頭に立ち、お客さまにキル フェ ボンの魅力を伝えていきたいと考えました。

結果、店長に選んでもらえ、大きな転機にもなりました。チャンスをつかんで好きなことをやるためには、恐れず声を上げたことがよかったのかもしれません。