スターリン政権下の大弾圧
しかしチーホンが1925年にこの世を去ると、また弾圧が始まります。
ロシア正教会は総主教を新しく選ぶことを許されず、チーホンが死の直前に指名した三名の総主教代理も相次いで逮捕されました。
1929年には、ロシア正教会を含む宗教団体を詳細に規制する法律が制定されました。
この法律により、宗教団体は厳格な登録制度に縛られ、慈善活動や伝道活動を含む一切の社会的活動が禁止されたのです。
また、ロシア正教会は監督機関の管轄下におかれ、ロシア帝国時代以上の統制を受けることとなったのです。
さらに無神論者同盟や戦闘的無神論者同盟といった反宗教団体が組織され、宗教に対する反キャンペーンが公然と行われました。
宗教は党から激しい規制を受け、30年代にはロシア正教会の影響力は衰えたのです。
このような状況下で、ロシア正教会は決して戦いを諦めませんでした。
総主教の選出や法的地位の回復が認められなかったにもかかわらず、教会は存続し、信仰者たちは信仰を守り続けたのです。
ソ連時代のロシア正教会は、無神論国家に対する抵抗の象徴となり、信仰の強さと忍耐力を示しました。
またソ連国内のロシア正教徒の数は正確な数は分からないものの4000万から5000万とも言われており、弾圧を行って完全に潰すにはあまりにも大きすぎる存在でした。
ソ連政府は苛烈な弾圧をすればロシア正教会はすぐに無くなると考えていましたが、聖職者を多く逮捕してもなお信仰が消滅しないという現実に直面したのです。
このため宥和策などが検討されましたが、それでも弾圧の対象であることは変わりませんでした。
ドイツの侵攻によって、ソ連から信仰を許される

このようにロシア正教会は苦難の時期を迎えますが、1941年に独ソ戦がはじまると転機を迎えます。
ドイツは占領地に教会を建設し、ロシア正教徒を味方につけようとしたのです。
またアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、スターリンに対し、支援を維持するために信仰の自由を拡大するよう要求し、拒否すれば支援を停止すると脅したのです。
その為スターリンは、教会を再び破壊することが無謀であると判断し、国家の無神論政策を犠牲にしてでも勝利を追求する必要があると考えました。
1943年にスターリンは教会首脳と会談し、政教和解の方針を示したのです。
スターリンはロシア正教会に対して大幅な譲歩を行いました。
この融和政策によって崖っぷちだったロシア正教会は何とか踏みとどまったのです。
しかしそれでも弾圧は無くなったわけではなく、ロシア正教会の信徒が堂々と教会に礼拝に行けるようになるのは、ゴルバチョフ政権のペレストロイカを待たなければなりませんでした。
こうした歴史は、一度国家に根付いた巨大な宗教は例えソビエト政権のような統制の厳しい政府であっても潰すことが非常に困難であることを物語っています。
日本でもキリシタンが時の政権に弾圧されたことがありましたが、それも完全に根絶させることはできませんでした。
多くの信徒を擁する宗教は、弾圧によって消える例は少なく、それどころかソ連の例を見るように他国から付け入られる隙になってしまうこともあります。
国家と宗教の対立は人類の歴史の中で幾度も繰り返されてきた問題です。ここにスポットを当てて歴史を振り返ってみるのも非常に面白いものかもしれません。
参考文献
ロシアにおける信教の自由 | 『宗教法』論文データベース (religiouslaw.org)