はじまりは江戸時代、朱子学者と国学者が主導した邪馬台国論争
このように今もなお議論されることの多い邪馬台国論争ですが、いつ頃から始まったのでしょうか?

邪馬台国論争が始まったのは江戸時代であり、朱子学者の新井白石(あらいはくせき)が『魏志』を実録と認識し、その中の「倭人伝」に注目したことから本格化しました。
白石は自身の著書『古史通或問(こしつうわくもん)』にて、伊都国などの所在地を筑紫(北部九州)に比定し、投馬国を広島県福山市または兵庫県神戸市とし、邪馬台国を大和国(現在の奈良県)に位置付けたのです。

それに対して同じく邪馬台国の研究をしていた国学者の本居宣長(もとおりのりなが)は白石とは異なり、近畿に邪馬台国があるという説に疑義を持っていました。

宣長は邪馬台国をヤマト政権とは全く関係ないものであると考えており、九州の南部に住んでいた熊襲などが勝手にやり取りをしたと考えました。
また、地名や日程を検証し、邪馬台国大和説を否定したのです。
投馬国は日向国(現在の宮崎県)、狗奴国(邪馬台国と敵対していた国家、魏志倭人伝には邪馬台国の南方にあると記述)は伊予国(現在の愛媛県)にあると宣長は位置づけており、邪馬台国の場所は伊都国などと同じく北部九州にあると主張していました。
この邪馬台国論争は、江戸時代中期以降に新たな展開を迎え、歴史学者たちが異なる立場から古代日本の謎を解明しようとした重要な時期として注目されています。
東大と京大に分かれて行われた戦前の邪馬台国論争
やがて時代は進み明治時代になると、学問は大学で行われるようになり、邪馬台国論争も大学へと舞台を移しました。
そして20世紀に入り、邪馬台国論争は新たな展開を迎えるのです。

1910年、歴史学者の白鳥庫吉(しらとりくらきち)東京帝国大学(現在の東京大学)教授は「倭女王卑弥呼考」を発表しました。
時を同じくして歴史学者の内藤虎次郎(ないとうとらじろう)京都帝国大学(現在の京都大学)教授も「卑弥呼考」を発表し、この論争に新たな視点をもたらしたのです。
その名の通りここでは両者とも「卑弥呼が古事記・日本書紀の誰にあたるのか」について論じていますが、「邪馬台国がどこにあったのか」についても論じています。
白鳥は倭人伝の史料的価値を高く評価し、里程・日数・方位や地名を検討しました。
彼は不弥国を太宰府近くに、邪馬台国を肥後国(現在の熊本県)に、狗奴国を九州南部の熊襲に位置づけました。
一方、内藤は倭人伝の史料批判を行い、九州説を批判して近畿説を主張しました。

彼は中国の『隋書』と『北史』に記された「倭国は、邪靡堆に都す,即ち魏志の所謂邪馬台なる者なり(倭国はヤマトにある。これは魏志倭人伝で邪馬台国があったところだ)」という記事を引用し、隋時代には大和を邪馬台としていたことから邪馬台国は大和国(現在の奈良県)にあると主張しました。
また、距離観や大国の位置に関して論じ、狗奴国を肥後国(現在の熊本県)と位置づけたのです。
このように、20世紀に入り邪馬台国論争は新たな解釈と論点が提供され、白鳥率いる東大派と内藤率いる京大派に分かれて激しい論争を行うようになりました。
このこともあって邪馬台国の研究は一躍ブームとなり、学者が研究論文を発表することが相次いだのです。
また従来の邪馬台国論争は魏志倭人伝をはじめとする文献を中心に行われていましたが、考古学者を中心に発掘された遺物や遺跡などといった考古学的考察を重視して研究する動きもみられ、史料一辺倒であった邪馬台国論争は新たな局面を迎えたのです。