「まあ何でも、サオが曲がると楽しいもんね」――先日、釣り場で知り合った年配の先輩アングラーに言われた。私はこの言葉に深い感銘を受けたものだ。ともすれば自己追い込み型のルアーアングラーにとって釣果確定がパセティックな至上命題でもあるが、太公望のようにただイトを垂らす楽しみ方もある。そんな釣りの「楽しみ」の正体は何なのだろう?
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター井上海生)
なぜ釣りをするのか
私たちはなぜ釣りをするのだろう?あなたも私もそうである。
やはり究極は「楽しい」からではないか?小さな魚と戯れる楽しさ、難しい魚を追い込んで仕留めたときの歓び、絶海の磯まで苦しみ歩いて行って狙い物を釣り上げたときにはもはや自制できない体の震え。釣れない退屈さもまた、その次に釣ったときの楽しさの溜めにさえなる。たまの無釣果も、悪いもんじゃない。
しかし、この「楽しい」とはどういう感覚なのだろうか?バラエティ番組を見ているのとは違う。本を読んでいるのとも違う。友達と喋っているのとも違う。実は釣りが「楽しい」という感覚は、釣り人にしかわからないものがある。「充実感」といえば近いが、それは何が充実しているのか?その奥深くには何が隠れているのだろう?
「自己肯定感」
持論だが、釣りの楽しさは、「自己肯定感」ではないかと思っている。魚が釣れると、何か自分がアップする感じがする。「いいな」「いいな」「いいな」がずっと続く。他人から「いいね」とグッドボタンを押してもらうのとは違う。魚が、海が、自分を認めてくれる――とまでいえば酔っているようだが。
しかし万事せせこましく暗くなっていく現代人にとって、どんな年になっても「俺って捨てたもんじゃない」「今、私いい感じ」と思えるのは、はっきり言って無上の歓びである。他の何も、そんなことを単純に認めさせてはくれない。仕事がキツい?誰も褒めてくれない?恋人ができない?何もかもうまくいかない?でも魚を釣れたら、「人生、捨てたもんじゃない」。自分で自分を良いと思わせてくれることが、他にあるだろうか?しかもそれは、海や川という大きな自然からの肯定でもある。
うまく行かないから釣ってゆける
釣りはテレビゲームとは違う。と言いたいものだが、似ているところもある。それはどんな釣りも畢竟ゲームだということだ。しかしゲームの理論とは「ゲーム続けさせること」であり、テレビゲームには絶対にそこに限界がある。人が作ったものだから果てがくる。
釣りは違う。何せ自然相手だ。ゲームは終わらない。パターンを見つけても必ず釣れないことがあり、釣れない時期がくる。四季の中で釣りを移していなければならない。釣り物、ポイント、タックル、場所。そのバリエーションの組み合わせも、あるいは有限か?しかし釣れることと、釣れないことがある。そこに自分の実力と自然の条件が組み合わさることを考えると、一生を尽くしても届かないかもしれない宇宙がある。
私が高校生だった頃、とあるシンガーソングライターがこんな歌を唄っていた。
「カンタンに行かないから生きてゆける」
そういうことだと思う。