――「超常現象」分野に深い造詣を持つオカルト研究家・羽仁礼が歴史的UFO事件を深堀り。アーノルド事件からCBA事件までを振り返る。

50年代のUFO研究団体「空中現象調査機構(APRO)」とは? 設立者が謎の自殺を遂げ…
(画像=『TOCANA』より 引用)

画像は「Getty Images」より

1952年には、世界最初の民間UFO研究団体である空中現象調査機構(APRO)も、アメリカで設立されている。

APROは、ジム・ローレンゼン(1922~1987)とコーラル・ローレンゼン(1925~1988)のローレンゼン夫妻が1952年1月、ウィスコンシン州スタージョン・ベイに設立した。

夫人のコーラル・ローレンゼンは、ウィスコンシン州ヒルズデールに生まれた。

1934年、彼女が9歳だったある日、2人の友達と一緒に、西の空を南から北に飛ぶ半円形の白いUFOを目撃した。3年後、視力検査で主治医のハリー・シュロモヴィッツを訪れたとき、彼女はこの体験を話した。するとシュルモヴィッツ医師は、そのような奇妙な飛行物体が昔から目撃されていることを指摘し、チャールズ・フォート(1874~1932)の本を貸し与えた。

フォートはアメリカの著述家で、長年にわたって世界中の奇妙な出来事を記録し続けた人物だ。

彼の興味の対象は空から降ってくる物体、湖の奇妙な生物、地震の前兆、さらに空中で目撃される不思議な光など、ありとあらゆる不思議な現象であった。

そこで、今でもこうした奇妙な現象を総称してフォーティアン現象と呼ばれることがあり、こうした現象に関心を持つ人物をフォーティアンと呼んだりする。シュルモヴィッツ医師も、このフォーティアンの一人であったのだろう。

フォートは謎の飛行物体について、他の天体から来た可能性も示唆しており、地球外起源説の元祖とも目されている。

この本を読んで、奇妙な飛行物体が昔から目撃されていることを知ったコーラルは、以後UFOに関する情報を個人的に集めるようになった。

夫のジム・ローレンゼンと知り合ったのは、第二次世界大戦中、彼女が軍隊で勤務していた頃だ。

ジム・ローレンゼンはミネソタ州グランド・ミードーで生まれた。1938年にハイスクールを卒業後ミュージシャンとして活動していたが、1942年に陸軍航空隊に入隊し、そこでは無線通信の研修を受けて通信技師となった。

将来の伴侶となるコーラルと知り合ったのもこの頃で、二人は1943年9月29日に結婚した。

1945年、軍を退役した夫のジムは、その後さまざまな職場を転々とし、それに伴って家族も転居を繰り返したようだ。

そんな中、1947年6月10日、アーノルド事件のわずか2週間前、当時アリゾナ州ダグラスに住んでいたコーラルは再びUFOを目撃する。

このとき、娘を寝かしつけた後、家の外で隕石を見ていたコーラルは、小さな、丸い光点を見た。光る物体は南の地面から飛び立ってまっすぐ空に上昇し、すぐに消え去った。

この経験後、夫妻はアメリカ全土だけでなく、UFOに関心を持つ世界中の人物と頻繁に連絡を交わし、科学的にUFOを研究する組織の設立を働きかけた。こうして1952年1月、ウィスコンシン州スタージョン・ベイにあった夫妻の自宅を本部として、APROが設立された。

この頃ジムは、まだ外の職場で働いていたので夫人のコーラルが会長を務め、機関誌の執筆や世界中の会員から寄せられる情報の整理、さらには地方紙への寄稿などもコーラルが主に行っていたようだ。

1964年になると、ジムがアリゾナ州ツーソンで自分の会社を設立したため、以後本部はツーソンに落ち着き、ジムが会長に就任した。

APROは客観的で科学的なUFO研究をポリシーとして掲げ、世界中の会員から寄せられるUFO情報や調査結果などは、ほぼ隔月のペースで発行される機関誌『APROブレッティン』に掲載された。最盛期の1967年には、4000人の会員を擁する、世界的な研究機関に成長した。

海外の会員には、ブラジル国民医学校教授で消化器部長も務めていた医師のオラボ・フォンテス(1924~1968)もいる。彼は当時ブラジルの代表的なUFO研究家として、いずれも1957年に起こったヴィリャス=ボアス事件やウバトゥーバ事件の現地調査も行っている。

また、カリフォルニア大学バークレー校の水産工学教授ジェイムズ・アルバート・ハーダー(1926~2006)やアリゾナ大学気象学部教授であったジェイムズ・E・マクドナルド(1920~1971)といった科学者もAPROに協力していた。

このマクドナルドは、当時のアメリカを代表する高名な気象物理学者でありながらUFO現象に大きな関心を寄せており、1968年7月に開催されたアメリカ下院の公聴会では、UFO界のガリレオとも評されるJ・アレン・ハイネック(1910~1986)らとともに発言し、UFO問題の重要性を訴えた。

しかし1971年になると、専門の気象物理学者としての立場から、超音速旅客機によるオゾン層破壊の危険を指摘したことから政治的に攻撃されるようになり、同じ年に謎の自殺を遂げた。

提供元・TOCANA

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