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政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)がアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』に寄稿した記事「ウクライナ戦争をめぐる倫理は、とても陰鬱なものである」は波紋を広げています。彼は、リアリストが伝統的に重視する「結果(責任)倫理」の基準から、今や「通説」として定着しつつある「ウクライナ軍によるロシア軍への反攻は正しい」という言説をこう批判しました。
もし友人が何か不用心なことや危険だと思うことをしようとする場合、その友人がどんなに強い意志を持っているとしても、あなたには、その努力を助ける道徳的義務はない。それどころか、彼らが望んだとおりに行動するのを手助けし、その結果が悲惨なものである場合、あなたは道徳的にとがめられることになる。
強硬派には、戦争に対する彼らの妥協なきアプローチが、長期的にはウクライナにより甚大な害を及ぼしうることを認めてほしい。それは強硬派が望んでいるからではなく、彼らの政策提言が生み出すものであるかもしれない。プーチンには戦争を始めた責任が…ある一方、この悲劇の責任の一端は、(NATO拡大などの)自分たちの政策がどのような事態を招くかについての以前の警告をすべて拒否した西側諸国の人々にもある。
同じような人々の多くが、戦争を継続し、賭け金を高めて、西側の支援を強化するよう声高に訴えていることを考えれば、彼らの助言がウクライナにとって過去と同じように今日も害を及ぼすかどうか、疑問に思うのは当然だろう。
ここでウォルト氏が主張したいことのポイントは、次のようになるでしょう。
① ウクライナ軍が「反転攻勢」を続けてもロシア軍を占領地から完全に撤退させられる見込はほとんどなく、むしろ、さらに多くの犠牲者を生み出すことになるだろう。こうした結果になることが分かっているにもかかわらず、それを後押しすることは倫理的に正当化できない。
② 国際法を破ってウクライナを侵略したロシアが悪いのは当然であるが、ロシアの言い分を無視して同国を追い詰めたのみならず、外交による戦争回避のチャンスを活かせなかったアメリカやその同盟国にも道義的責任はある。
私は、ウォルト氏の主張がもっともだと判断したので、彼のX(旧ツイッター)のアカウントに賛同する旨の投稿をしたところ、これに同意する人はほぼ皆無であるどころか、猛烈に罵倒されました。ウォルト氏や私に対する非難のパターンは、おなじみのものです。すなわち、ウクライナのロシアに対する「徹底抗戦」に少しでも疑問をはさむ人間は、恥ずべき「親ロシア派」であるということです。
ご参考までに、ウォルト氏のXのアカウントに寄せられた「イイね」の数は約1200件である一方、コメントもほぼ同数です。コメントにざっと目を通したところ、大半が彼に対する批判のようでした。
正義の戦争と不正な戦争国家間の関係をみるレベルは、4つに分けることができます。すなわち、①国際関係の基本的ロジックの「理解」、②国際関係の現象の一般的原因の「説明」、③国際関係の歴史の「記述」、④国際関係の出来事に対する倫理的「判断」、です(中本義彦「規範理論」吉川直人・野口和彦編『国際関係理論(第2版)』勁草書房、2015年、296頁)。
ロシア・ウクライナ戦争の言論空間では、これら4つの次元で、さまざまな議論が展開されています。
国際関係論のリアリズムやリベラリズムといった理論的パラダイムは①に関するものです。「なぜロシアがウクライナを侵略したのか」という疑問は、②についてのことです。リアリストは主としてNATO拡大、リベラル派は、民主主義の波及やプーチン大統領の帝国主義的野心とか失地回復主義の野望などに原因があると主張しています。戦争の経緯の報道は、主に③の領域になります。そして、多くの人たちは、ウクライナ戦争について、①~③の議論だけではなく、④の倫理的判断も下そうとしているのです。
われわれは、国際関係の出来事を説明したり理解したりする際に何らかの理論に頼るのと同じように、倫理的判断をする際にも、何らかの基準を必ず用いています。その際、ほとんどの人たちは、その基準を明確に意識していないようです。
しかしながら、国際政治の世界にも、倫理に関する「規範理論」があり、多くの研究者が長い時間をかけて、それを発展させてきました。その代表的なものが「正戦論」でしょう。
正戦論では、戦争は「正義の戦争」と「不正な戦争」に分類されます。国境を越えて武力で他国の領土に侵攻する行為は、原則として「不正な戦争」、わかりやすく言えば「侵略戦争」になります。したがって、道義的に正当化はできません。ロシアのウクライナ侵略は、もちろん「不正な戦争」として批判されるべき悪い行為です。
その一方で、国家の独立や主権を守るために侵略国に武力で立ち向かうことは「正義の戦争」、わかりやすく言えば「自衛戦争」です。したがって、ウクライナがロシアの侵略に対して占領地を取り戻そうとして戦っていることは、「正義の戦争」として擁護されるべき行為ということになります。これにはリアリストもリベラル派も、ほとんど全員が同意するでしょう。もちろん、私もこの判断に異論はありません。
政治の世界における倫理的パラドックス水戸黄門の時代劇のように、正義に立った者が常に悪者を倒すのであれば、世界の出来事は単純な倫理的規準で判断しても問題ないでしょう。人は正しいと思うことを素直に実行すればよいということになります。しかしながら、政治の世界は、必ずしも、そうなりません。すなわち、善いと思う行為が悪い結果になったり、悪いと思う為が善い結果になったりすることが珍しくないのです。
たとえば、人々が平等に暮らせる世界は望ましいものであると、多くの人は考えるでしょう。共産主義国は、こうした平等な社会の建設を目指しました。その結果は、どうだったでしょうか。旧ソ連や中国、カンボジアといった国家では、特権階級あるいはブルジョワジーに属すると判断された人たちが、徹底的に弾圧されたのです。
毛沢東が始めた「大躍進政策」では、ブルジョワ階級の人たちは強制的に農業に従事させられました。だれもが農作業をやれば平等であるというわけです。しかしながら、素人が突然に農業を始めたところで、その生産力は向上しません。むしろ、大躍進は大飢饉を招きました。その結果、中国では約4500万人もの人が非業の死を遂げたのです(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011年)。
しかも、こうした悲劇は中国だけに限られたものではありません。いわゆる「共産主義国」では、誰もが平等で幸せに暮らせる社会が創られるどころか、国家の官僚機構が国民生活を統制することにより人々の自由が奪われ、共産主義体制を脅かすという理不尽な理由などにより、反体制派に対する徹底した弾圧が断行されたのです。
その結果、おびただしい無辜の市民の命が理不尽に奪われました。共産主義政権の圧政下で失われた命は、ソ連では約2000万人、中国では約6500万人、北朝鮮では約200万人、カンボジアでは約200万人といった想像を絶する数に上るのです(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』恵雅堂出版、2001年、12頁)。
「地獄への道は善意で舗装されている」という格言があります。これは政治の世界を倫理的に考える際には、決して忘れるべきではない言葉です。
逆に、悪いと思われる行為が善い結果をもたらすこともあります。その1つが相互核抑止でしょう。私が居住する周辺地域の自治体は、こんなことを言っています。「私たちは、平和を愛するすべての国の人々とともに、真の永久平和を実現することを決意し、ここに『核兵器廃絶平和都市』を宣言します」。
核兵器は、ヒロシマ・ナガサキで20万人以上の市民の命を奪いました。これは文字通りの「悪魔の兵器」でしょう。その一方で、核兵器は第二次世界大戦後の「長い平和」を維持する大きな役割を果たしたと言われています。冷戦史の大家であるジョン・ルイス・ギャディス氏(イェール大学)は以下のように主張しています。
(冷戦期に)どれほど多くの危機が米ソ関係に振りかかったことか。これが他の時代、他の敵対国間のことであれば、遅かれ早かれ戦争になっていたであろう。戦争にならなかったのは……核抑止の作用から生まれた……戦後国際システムの安定化効果……である。核兵器は、かつてならば戦争になってもおかしくないエスカレーション・プロセスを(米ソの政治指導者に)思いとどまらせた。
(ギャディス『長い平和』芦書房、2002年、396-398頁)
要するに、究極の殺戮道具である核兵器は、それが使用された場合のコストがあまりにも大きいために、核武装した国家の指導者は、相互に戦争になるような行為を避けるようになった、ということです。その結果、冷戦は国際政治史上、最も長い間、大国間戦争が起こらなかったという意味で「平和」だったのです。
もちろん、核抑止は「恐怖の均衡」と呼ばれるように、核武装国同士が「絶対兵器」で脅し合うことで戦争を防ぐのですから、これを拒絶したい感情を持つ人は少なくないでしょう。
相互核抑止は「過剰殺戮」という手段に訴えるものである以上、人道に反するのだから、倫理的に正当化できないという主張は、正しいように思えます。しかし、よく考えると、そうとも言えないことが分かります。なぜなら、悪である核兵器を廃絶した世界が、今よりも安全であるとは思えないからです。このことについて、ジョセフ・ナイ氏(ハーバード大学)は、核抑止をこう擁護しています。
核兵器の恐怖につきまとう精神的な苦痛といったものは存在する。それは、いってみれば抑止の利益にたいして課せられたコストなのである……核時代の憤怒は高いものにつくかもしれない……反核十字軍運動が、かえって破局的結果を招くことにもなりかねない……絶対主義の類推にもとづく(核廃絶)政策は、核戦争の危険を小さくするよりもむしろ大きくするであろう……ある国がごまかしをやろうとしたばあい、いったいどうするのか……核廃絶に調印したからといって、そのような行動をなくせるとでもおもっているのだろうか。
(ナイ『核戦略と倫理』同文舘、1988年、115、138-141頁)
核軍縮が極度に進んだ世界は、皮肉なことに、核兵器の政治的価値を吊り上げてしまいます。そして、ある国家が少数の核兵器であれ単独で保有することになれば、それを脅しの手段として利用して、他国を支配しようとするかもしれません。そのような事態になることを恐れる国家は、敵対国の核保有を阻止するために予防戦争に訴えるインセンティブを高めるでしょう。
こうして核廃絶に近づく世界は、核抑止が効いている世界より、はるかに不安定で戦争が起きやすくなると容易に予測できるのです。そして、こうした危険を避けること、すなわち、相互核抑止を維持することは、道義的に正しいと判断することができます。