ただし、家康の臣従は、家康が秀吉のもとに出仕することで確定される。かつての研究では、家康が旭姫との結婚後もなかなか上洛しなかったことから、家康が秀吉への臣従に依然として抵抗していたと見られてきたが、家康が上洛しなかったのは、真田問題が解決していなかったからである。
上洛前から家康は、徳川家から離反した真田昌幸を徳川の与力につけてほしいと秀吉に要請している。この要請は、家康が秀吉を徳川・真田の上位に立つ調停者=「天下人」として見ていたことを示すもので、既に家康の臣従は既定路線であった。
8月9日水野忠重宛て豊臣秀吉朱印状(「徳川美術館所蔵文書」)によれば、秀吉は、家康が既に真田討伐のために出兵しているのであれば、家康自身が出陣して真田昌幸の首を刎ねるべきであり、上洛が遅れることはやむを得ない、と考えていた。秀吉は家康の早急な上洛を必ずしも求めていなかった。既に臣従は実質的には成立しており、大坂城への出仕は家康の臣従を諸大名に見せつけるための形式的なものにすぎず、ことさら急ぐ必要はなかったのである。
もっとも、家康が真田を徳川に帰属させるため、交渉カード(取引材料)として上洛を引き延ばしていた可能性はある。しかし、それは秀吉からより多くの果実を引き出すための条件交渉にすぎず、臣従を前提にしたものだった。
結局、家康は10月末に上洛するが、この時期になったのは、正親町天皇から後陽成天皇への譲位式(11月7日)に参加するためと考えられる。家康上洛中の安全の保障として、大政所が人質として三河に下向したことは周知の通りである。
江戸時代に作られた「家康神話」をいかに相対化していくか。これが徳川家康研究の最も重要な点である。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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