問題となるのは、宗教的ルーツとは無関係の献金行為の場合だ。その場合、贖罪とか神の加護といった世界に無縁の共産党弁護士のビジネスの餌食になるだけだ。日本では共産党系弁護士たちが、統一教会に献金したが、後日、その献金を返してくれと訴えている元信者たちの相談窓口となって、統一教会に返金を求めている。弁護士たちにとってビジネス・チャンスであり、統一教会にダメージを与えることが出来るというわけだ。
キリスト教会にとって「献金」は商品ではない。効果がないから商品の代金を返してほしいといわれても困るわけだ。所有権の問題だ。この世が所有するか、神が所有するかの問題だ。献金は神に所有権を移行させる行為といえる。万の神を信じ、ご利益信仰の場合、効果がなければ、返品を求めたくなるのは理解できるが、キリスト教の場合、一旦献金した場合、それはもはや自分の所有物ではなく、神の所有物だ。もはや発言権はないのだ(「『献金』と神のオーナーシップ」2022年8月12日参考)。
贖罪手段(支払手段)は時代が進むにつれて、より軽く、交換しやすく、人間に負担が少ない方法へと変わっていった。21世紀の今日、デジタル通貨も誕生した。それにつれて、「お金」のルーツ、贖罪という宗教性は希薄化していき、「お金」は単なる購買力を表す手段とみなされてきた。
キリスト教会は、「お前たちは罪人だ。神の前に供え物を捧げるように」と説教してきた。そして、教会の「献金」制度が出来た。ところが、21世紀に生きる私たちは古代人のような罪意識や贖罪感を持ち合わせていない。献金制度の前提であった信者たちの罪意識が乏しくなると、献金は集まらなくなる。贖罪意識の乏しい信者に、強制的に、偽りの贖罪意識を植え付けて献金を集めようとすれば、後日問題が生じるのは当然だろう。
繰り返すが、旧統一教会の献金問題はそれが高額であろうが、少額であろうが、宗教的ルーツ(贖罪)に基づく限り、全く問題はない。高額献金を問題視し、旧統一教会を糾弾する共産党系弁護士たちは自らが宗教の世界に疎いことを証明しているだけだ。
最後に、贖罪意識があっても「献金」する先がない社会を考えてみてほしい。無神論的唯物論を掲げる共産主義国のような社会だ。その世界に生きる人々は自身の罪悪感、贖罪感をどうようにして止揚できるだろうか。贖罪と献金の受け皿(宗教)のない社会こそ最も恐ろしい世界ではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年9月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
【関連記事】
・「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
・大人の発達障害検査をしに行った時の話
・反原発国はオーストリアに続け?
・SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
・強迫的に縁起をかついではいませんか?