彼が最初に起業したペイパルっていうシステムを私は結構長いこと使ってるんですが、「同業他社」と比べて決済手数料がめっちゃ安いんですよね。
「その安さ」を生み出している理由について、上記記事では詳細に書いてあります。
問題は、その「ペイパルの強みの源泉」って、多分テスラ車の技術的先進性に熱中してるようなタイプの人が聞いても「ふーん」で終わるような何気ない部分なんですよね。
でもイーロン・マスクは「そこ」の事を全く関係ないテーマのインタビューでもメチャクチャ熱弁して語るタイプの人で、「その感じ」は、僕が普段接する「中小企業のやり手経営者の感じ」に近い部分で、そこが妙に恐ろしい感じではあります。
「小銭をかき集める執念」みたいなのが、夢を語ってれば赤字でも許される「ベンチャー」文化出身の経営者とは全く違う。(同時に赤字を許容させる文化も最大限に利用してますが)
「必死に製造行程を工夫して1%の利益を絞り出す」伝統メーカーをよそに、車体OSのデファクトを取るとか充電設備の運営だとか環境対策クレジットの販売だとかで、簡単に5%とかの利ざやを抜いていくような、そういう部分こそが、テスラの「もう一つの警戒しなくちゃいけないポイント」だなと思います。
その点も、日本メーカーはかなり意識して、「テスラに取られない防衛」と、「自分たちなりの攻撃」を真剣に考えるべきポイントになるでしょう。
8. 電気自動車の未来についてさて。
ここまで、「電気自動車」の話ばかりしてきましたが、この話になったらいつも「EVはどれぐらいのスピードで世界を制覇するか」みたいな神学論争になるんですよね。
これはもう本当にはわからん、としか言いようがないです。
ただ、例えばTwitter(X)とかが炎上したりする時の事を考えると、キレイに同心円状に、「出会う人間のタイプ」が変わっていくのを感じるじゃないですか。
「数百いいね」ぐらいになるまでは「自分と近いタイプの仲間」にしか出会わないけど、「千いいね」を超えて、「一万いいね」ぐらいになると、有象無象の「今まで出会ったこともなかったタイプの人」に出会って色々と考えもしなかった攻撃をしかけてくる。
これが「十万いいね」になると、もうある意味でメチャクチャな言いがかりみたいな話も含めて想像を絶する色んな反応が殺到するようになる。
「商売」でもだいたい同じことは起きるんで、EV全体の市場シェアが10%とか20%とかの間では、ある意味で「信者」しか相手にしてないので、色んな不具合も不満も見過ごされてるし、「アンチEV」派が何か言ってきても「結束して対抗してやろう」ぐらいの仲間感がある。
一方で、これが、30%を超え始めたりすると、「電気自動車対内燃機関」みたいな論争とかまっっっったく興味ない人がお客さんになっていくわけで、そういう人は、顧客体験として「良い」と思えばそのまま残るし、微妙だと思ったら即離れていってしまう。
「今の調子で一気にEVに置き換わる」と言っている人は、そういう側面を無視しているのではないかと思います。
ただ、自分は電気自動車は「反EV派」が言うほどには不便だとも思って無くて、現時点でも「家で充電できる」人は案外フィットする可能性はかなりあるはずです。
さっきも貼ったBYDに乗った感想としての長文ツイートにも書きましたが、だいたい以下のような感じではあると思う。
(上記ツイートより引用)
私は自分の持ってるクルマはマニュアルシフトのエンジン車という絶滅危惧種人間なんですが、電気自動車の加速感とかは嫌いじゃないです。これは結構「走りとかどうでもいい」って言ってる現代人も実は大半は同意する感覚じゃないかと個人的には思っています。
「走りの味」って言うとマニアックな趣味人の話みたいに聞こえるけど、例えば(高速でなくても40キロで走ってる町中で)自分の走行車線の前が詰まってきた時に右車線チラ見したら空いてて、ちょっと加速して追い越したいな…みたいな時に、ちょこっとアクセル踏んだら「キュンッ!」って加速して右斜め前の空いてる空間に飛び込めるのとか、エンジン車でやろうとするとちょっとした運転テクがいると思うけど、電気自動車ならだれでもできる。
『バスケットボールの凄い選手がディフェンダーをかわすスーパープレイ』、みたいな感じ?
スラムダンクなら「ズバッと来たぁ!」って観客が叫ぶw
「この快感」は、単純に、「走りとか興味ないですぅ」って人も結構単純に好きになれる感じではあると思う。
他にも、電気自動車はアイドリングしないで停止状態で中で色々やってても迷惑かけないので、テスラを「シアタールーム」として使ってるみたいな話はよく聞きますし、個人的にも「おでかけ中にクルマの中で長居しちゃう」経験とかは色々しました。
ガソリン車だと、高速のサービスエリアで外歩いて休憩して、クルマに戻ったらすぐ出発って感じになるけど、電気自動車ならなんか停止状態のクルマの中でダラダラしちゃう感じ(笑)
そういう意味で、想像以上に「あるタイプの消費者」には熱烈に支持されるポテンシャルはあって、日本国内でもどこかのタイミングで大ブームになって2割3割のシェアになる可能性は十分あると同時に、「逆の考えの消費者」には嫌われ続ける…みたいな、ある意味当たり前の未来を感じるところがあるんですよね。
個人的な予想としては、一部の先進主義者が言うように2035年に全部EVになるっていうのは、例え国家的にEVを推し進めまくってる中国でもちょっと難しいのでは?と感じると同時に、2050年に全世界的にEVがほぼ主流になる未来には違和感がない…という感じでいます。
2050年頃になれば「発電部分」からして全世界的にかなりエコ化は進むと思うので、その頃になったら「EVがエコ」があながち嘘ではなくなるからですね。
一方で直近での自分個人を考えると、マニュアルのガソリン車が気に入ってるという絶滅危惧種的問題もさることながら、とりあえずEV買うには引っ越しからはじめないと(笑)という感じで、やっぱり自宅で充電できないのにEVっていうのはほぼ無理筋だと思いますし、世界中の都市部で、これは案外最後まで重大な問題として残るのではないかと感じています。
そりゃ金持ち地区にはマンション内にもバンバン整備されるでしょうが、そういう「自宅で充電できる設備」が、それぞれの国で経済的に比較的余裕がない層まで行き渡るのか?っていうのがポイントで。
「今まではクルマ持てていた層」がめっちゃ限定されてしまうみたいな現象が起きた時にそれを政治的に許容できるのか?みたいな話もまた出てくるように思います。(特にそういうので文句言いがちな米国でいつかのタイミングでめっちゃ大問題になりそう)
9. 「水の世界」と「アブラの世界」の相互コミュニケーションが今後の日本の鍵そういう未来に向かって、日本車がどう対抗していけばいいのか?っていう話なんですが。
とにかく「水の世界」と「アブラの世界」の間のコミュニケーションが絶望的に悪い状況をなんとかしないとどうしようもないな、と思います。
テスラファンの人が、「テスラのここがスゲー!」って言ってる”情報”自体は、スムーズに取り入れられる事が必要ではあるんですよ。BYDとかヒュンダイのアイオニックでも同じで、それを買ってる人が「それを買った理由」自体には虚心坦懐に向き合わないとダメ。
…なんだけど、現状のテスラファンはかなり「信者」レベルの人も多くて、日本メーカーが「長期的戦略としてやっていること」まで全部全力で否定してテスラみたいにやらないのはダメ、数年後には日本メーカーは滅ぶ…みたいな話ばかりしていると、「取り入れる」にも取り入れようがなくなるみたいなところはあるんですよね。
電気自動車戦略に関しては、
・現状日本メーカーが出遅れがち(明白) ・たとえ全部EVにならないとしても規制対応などの理由で「ちゃんと戦えるラインナップ」を最速で用意しないとマジでヤバい
…みたいな事は、ある程度自動車業界を知っている人間にとっては、ほぼ「当然」の前提みたいになりつつあるので、
・果たして2035年に全部EVになるのかどうか
…みたいな、誰も知り得ない神学論争みたいなものは、とりあえず棚上げにして、「意見が共有できる部分だけで共有する土台」を作っていくことがまず大事だと思います。
「急激に全部EVにはならない」可能性だって十分あって、「二正面作戦」をやる意味はやはり必ずあるわけなので、そこの「戦略」の部分は、EV原理主義者もまあ「現時点ではとりあえず否定しない」という前提で話すのもそれほど無理筋ではないはずで。
勿論あくまで「EV一本足打法以外認めない」という論者もいていいけど、そういう極論家とは別に、「ある程度EVの事を知っている人」と「日本メーカーの事情がわかっている人」が、がっぷりと情報共有しあって進む道を適宜決めていく土台を作っていくことがまず大事なことだと思います。
ここに「感情的なコジレ」が残っていると、情報のやりとりがスムーズにいかなくて日本勢のEVづくりの細部設計が「EV乗りのニーズ」からズレるっていうのもありますが、そもそも今後10年単位で日本は「ハイブリッドやエンジン車で儲けたカネをEVに投資する」をやり続けないといけないわけですけど、いちいちお互い馬鹿にしあってたらそういう部分ですら感情的な火種になってしまいますからね。
そうやって「直近のEV競争」には、勝てなくてもいいから「負けない」状態までなんとか行く必要は絶対的にある。
そこで「まあ敗けてはない」状態にまで行けたら、その先は日本勢の「みんな」へのアブラの世界的な繋がりが切れていない事のアドバンテージが見えてくるでしょう。
ウェブメディアからEV記事を依頼される元になった以下の記事
で書きましたけど、私は「水素」関連のエコシステムが立ち上がらないと、本当に人類全体レベルでのエコ化とか無理だと思ってるんですよね。
でも、ある意味で「単純な技術効率」みたいなことを考えると水素って「アホっぽく」見えるんですよ。めっちゃ無駄なことをしているように見える。
でも、人類の歴史の中で「通貨」という制度を維持することにメチャクチャ資源もエネルギーも浪費してますけど、あるのとないのとで社会の発展が全然違ったじゃないですか。
上記記事で使った図ですが…
この図の内容については上記記事で詳しく述べたのでぜひそちらを読んでいただきたいですが、「水素エコシステム」はそういう「カネに色はついてない」レベルの全く違う次元の協業を可能にするので、最終的には必要になる技術セットなのだと私は考えています。
こないだネットであるエコ系技術の研究者の人が、「水素は現時点で技術的には有望性はないが”政治的な理由”で推進されがち」って言ってて面白かったんですが、「そういう現状」自体が実は、「テスラ型の頭良い人の内輪に閉じた技術セット」では救いきれない側面を救うためにどうしても出てくる領域ってことなんだと思うんですよね。
水素に投資し続けてきたトヨタが、その「水素関連の技術」をBtoBに提供するビジネスが徐々に動き始めている、という話を聞きましたし、「テスラ型のロケットサイエンティストだけで閉じた未来」が将来的に「本当の人類社会のナマのリアリティ」とぶつかって足りない部分が出てくる時、トヨタ型に「みんな」と切れていないカルチャーから生まれてきたものの優位性が明らかになってくる未来は来るはずだと思っています。
でもそういう「全方位戦略の本当の優位性」「”みんな”への責任が持つ価値」みたいなのは、「とりあえずのEV戦争」にある程度「惨敗しないレベル」まで戦えないと絵に書いた餅になってしまうんですよね。
「正しいことをしたければ偉くなれ」というわけで、その「日本側が主張する本当の正しさ」を世界に堂々と展開するには、「直近のEV競争」で「圧倒」はできなくていいが「惨敗」だけは必死に避けていかなくてはいけない、ということではあります。
その点において「直近のEV競争で負けないための戦いはガチでやらないとマジやばい」のはEV賛成派・反対派問わず合意できるポイントだと思うので、無駄な言い争いをしてないで、そこの部分を曇りなき共有視野の中で冷静に議論できる環境になっていけばいいですね。
■ 長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
とりあえず「テスラ」とか「EVの未来」みたいな話はここで終わりです。
ここから先、日本国内での「水とアブラ」の間の論争をもっとスムーズに双方向的に行えるようにしていくために、「クックマート」型の経営のあり方とのコンビネーションが重要になるのだ、という話を、「後編」にまとめます。そちらもぜひお読みいただければと思います。
また、人類社会の分断を超えるような、「日本発の新しい希望の旗印」をどうやって掲げていったら良いのかという話については、以下の本をぜひ手にとってみていただければと思います!
『日本人のための議論と対話の教科書』
さて、ここ以後の有料部分では、もうちょっと現代の「EV」の乗り心地とガソリン車との違いについて考察したいと思っています。
テスラ車は性能としては抜群に凄いと思ったけど、操作フィーリングとしては日産リーフに、「ガソリン車からの延長」で感じられる良い文化を感じるようなところもあったんですよね。
それは「クルマの重さからくる慣性」みたいなものをいかに取り込むか、みたいな部分で、現代のEVの一部はそういう部分を一切運転者に感じさせないように、「全部意識的にコントロール」する形の設計になっているところが、ちょっと個人的には不満というか、最後まで多くの人に違和感として残る部分ではないかと思うところがあるんですよ。
その後、マニュアルのガソリン車である自分のクルマに乗ってると、「全部コントロール」する感じじゃないフィーリングに凄い安心するんですよね。
一速で始動したあと、その「エネルギー」は「重い車体が動く慣性の力」として、自分とは別個の存在として保存されるわけですよね。
そして、「車体の重さ分の慣性の力」が与えられて進んでいく状態を感じながら、適宜「ちょっと駆動力を足す」→「慣性で動く」→「駆動力を足す」→「慣性で動く」って感じになるんで、「全部コントロール」してる感じじゃないフィーリングが、やっぱり個人的には凄く落ち着くというか、「無理」をしないでいられる安心感みたいなのがあるんですよ。
「クルマという”他人”」の声を聞きながら、「あ、もうちょっと駆動力必要?じゃ足しとくねー」「ありがとうー(byクルマ)」みたいなコミュニケーションが常にある感じというか。(日産リーフにはちょっとこういう要素が残っているようにも思いました)
一方で一部のEVは「こういう関係性」が一切なくて、「自分という神様」の言うとおりに「車体を”使役”し思い通りに動かさせる」という感じで、そのフィーリングが自分はかなり怖いなあ、という気持ちになったんですよね。
そういう意味では、テスラ車に一日中乗ってると、なんかだんだん運転が荒くなってくるっていうか、「悪魔との契約でスーパーパワーを与えられた凡人がだんだんダークサイドに堕ちていく」ような気持ちにもなったというか(笑)
そういう視点から、テスラユーザーの人がやたら他の車種をディスりまくるようになりがちなのも、この「悪魔との契約」的要素があるんじゃないか、みたいな、なんかそういう話をします(笑)。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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