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過去4回(連載⑥、連載⑦、連載⑧、連載⑨)を受けて、引き続きヒッケルの「所論」を考えてみる。
(前回:「社会資本主義」への途 ⑨:社会科学からみたLess is Moreの位置)
『清貧の思想』との類似これまで4回にわたり、『資本主義の次 の世界』の全貌を紹介しつつ、その問題点についてコメントを重ねてきた。その過程で、30年前の日本でベストセラーになった中野孝次『清貧の思想』(1992=1996)との酷似に気が付いた注1)。
ヒッケルが描き出したアニミズムについてはこれまでの連載でその都度紹介してきたが、それと同じ表現が『清貧の思想』全篇を覆っていたからである。いくつか事例を示してみよう。
『清貧の思想』に現れたアニミズム思想「植物も動物も、花も鳥も、山も川も、すべてが人間と同等な生命の顕現である」(同上:171)。 「人間も樹木も鳥も獣も、生あるものはすべてわが同類である」(同上:177)。 「松が本当に自分の友、自分と同じ存在と感じられる」(同上:182)。 「自分がすべての生命と一体であることを知り、・・・・・・自然と協力するように努める」(同上:195)。 「人間、動物、植物、海洋、星座のあいだには類似があり、同じ根源から発し、互いに親しい調和の中に生きなければならない」(同上:207)。 「鳥や獣や花をわが身の同類として生き生きと共感する」(同上:209)。
『清貧の思想』ではアニミズムという言葉は使われていないが、これら文章の背後にヒッケルが紹介したアニミズムの事例の同質性を感じ取ることは容易である。
『清貧の思想』概観いくつかの著者紹介によれば、中野は東大文学部独文科を卒業して、1952年から28年間國學院大學で教鞭を執る傍ら、カフカ、ノサック、クロコフなど現代ドイツ文学の翻訳紹介に努めた。1966年に1年間滞欧の経験がある。
『清貧の思想』の問題意識は鮮明であり、方法としては歴史上から周到に選択した数名の「清貧」の暮らしの様相を紹介し、それを基準にして90年代までのバブル期を含めた近現代の日本社会の「大量生産・大量消費の文明」の見直しを主張するというエッセイであった。
元来がドイツ語学・文学者なので資本主義批判などはなく、もっぱら「清貧」を積極的に実践したとされた西行、鴨長明、兼好、本阿弥光悦、芭蕉、池大雅、良寛などが遺した日本史上600年にまたがる「古典」を解説しながら、「清貧」を示す「心の世界を重んじる文化」を工業大国・日本文化に対置した。
所有は悪か「日本文化の精髄」(同上:4)として「清貧」を位置づけ、歴史上の人物の足跡と作品を通してそれを明らかにする立場から、中野はまず「所有」についての事例を出して、「所有が多ければ多いほど人は心の自由を失う」(同上:31)と断言した。
しかも「人間は生きていくうえで必要欠くべからざるだけの物があればよい」(同上:32)から、「つまらん絵画だの骨董だの、書物だの家具だの」(同上:33)を所有の事例としてあげた。
しかし、これは中野自らが「天に唾する」(What you do will backfire on your someday.)ことであった注2)。
なぜなら、28年間大学教師をして、数名の現代ドイツ作家作品の翻訳をしたという経歴からすると、原書や参考書や大型辞典の「所有」は絶対譲れなかったはずだからである。
「所有」は文字通り「人さまざま」(テオプラストス)である。大学教師にとって内外の専門書や日本語外国語を問わず大型辞書の「所有」は不可避であるし、武士には刀が、画家では画材が、ピアニストにはピアノが、家具職人にとっては大工道具が、野球選手ではバットやグローブが、通常の業務ではパソコンが、自動車の運転手はクルマが、そして情報社会や国際社会を生き抜くには国民全員のスマホの「所有」も必然となる注3)。
人さまざま一方で、「大事なのは他人の目ではなく、己の心の律なのだ」(同上:33)といいながら、「欲望」を否定して「魂」を対置する(同上:43)。その延長線上に「現生の名利を求める世界」とは異なる価値観を位置づけ、それを「時代の文明の成熟」(同上:111)と断定した。
しかもたとえば蕪村が生きた江戸時代との比較も行わず、いきなり鎌倉時代末期の『徒然草』を引き、「仕事、人間関係、世間体などの諸縁を断ち切って心安らかにしておく」(同上:129)ことが「生を楽しむ態度」(同上:129)とする。ここにも「天に唾する」ものがあり、「人さまざま」への無理解が認められる。
大学教師をした28年間、授業の準備、教授会、各種委員会、試験監督、採点、地方入試出張、論文指導、ドイツ文学の翻訳、エッセイ執筆など「仕事、人間関係、世間体などの諸縁」におそらくまみれたはずの中野が、読者に対して「諸縁を断ち切る」と言ってもまったく説得的ではない。
「清貧」は美しい思想か「日本にはかつて清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった」(同上:161)。また、「清貧とはみずからの思想の表現としての最も簡素な生の選択である」(同上:166)も同系の表現になる。
これらが本書で繰り返されたモチーフであり、「スケジュール表」(同上:231)を否定して、「クルマの所有」(同上:245)に疑問を呈して、「クルマの輸出は・・・・・・誇りにならない」(同上:254)まで延々と日本人の経済活動・消費動向の現状批判が続く。
柳田学を経由するとしかし視野を広げると、例えば『清貧の思想』から60年前の柳田國男では、「貧」は文芸作品だけからの把握で論じるものではなく、「一つの時代相」(柳田、1930=1976下:142)なのであった。それは、「記録文学に残り伝わっているのは、いわゆる清貧に安んじたという変わり者の生活・・・・・・・・・・・・・・・・・が多いが、その他の普通の人とても、それをわれわれほどには気にしなかった」(傍点金子、同上:143)としたところにはっきり出ている。
「つまりはただ馴れているという者が少なくなかった。それほどまた久しい間、家々の悪い生活は続いていた」(同上:143)という文脈からすると、清貧を中野が「日本文化の精髄」(中野、1996:253)と持ち上げる視点と柳田の認識との異同に驚くしかない。
柳田『国語の将来』(1939=1977上)ではその趣旨がさらに鮮明になるので、少し長いが引用しておきたい。
「われわれは国語一つに限らず、すべて文化生活の現在の状態を作り上げた原因は、主として近い過去にあると見ている。その原因のまた原因は、だんだんと一つ前にあるのであろうから、それをも見落とすことはできないが、一足(いっそく)飛びに古いものをとらえて、それと今日とを因果づけることは危(あぶ)ないと思っている」(同上:27)。
『清貧の思想』の登場人物『清貧の思想』は、柳田のこの指摘通りの「危うさ」が全篇に認められる。ちなみに登場する「かつてこの国に生きていた人たち」は以下の通りである。
古い順に記せば、西行(1118〜1190)、鴨長明(1155〜1216)、兼好(1283?〜1352?)、本阿弥光悦(1558〜1637)、芭蕉(1644〜1694)、蕪村(1716〜1783)、池大雅(1728〜1776)、良寛(1758〜1831)であった注4)。
「鴨の長明とか吉田兼好とかいう世捨人は、確かに自分ばかりは達観することができたようであるが、まだその方法を教えてはおかなかった」(柳田、1930=1976上:15)。そのために中野は、これらの古人が書き残した作品から適宜に選択して、解釈しながら、自説をのべた。
この方法では「清貧は、志の高雅と離俗の心根の必然」(中野、前掲書:109)にふさわしい作品や文章を自由に使うことができる。文章を引用・紹介した後は、「と信じている」「かもしれない」「気がする」「と思う」「と思われる」「はずである」「想像する」「違いない」などが乱発される。
どのような「清貧」だったかしかもこれら8人は作品でも実生活の表面では「清貧」を表現していたが、「本阿弥の家は・・・・・・足利尊氏のころから刀の目利き、研ぎ、磨きを家業として来た家柄」(同上:34)であったし、鴨長明は京都下鴨神社の禰宜の生まれだし、「芭蕉の旅が実際は各地の俳人や豪商に手厚くもてなされての比較的快適な旅であった」(同上:151)ことを考えると、三人ともに金銭面での支えがまったくなかった「清貧」とはいえないだろう。
しかも「貧すれば鈍する」(Poverty dulls the wit.)は正しいので、金銭面での貧困が続くようなライフスタイルであったならば、後世に残る作品は書けなかったに違いない。支えがあってこそ、「文芸に対する態度が日本文化の正道を継いでいる」(同上:149)芭蕉の作品が生まれたのだろう。
これは、「芭蕉なきあとの俳諧という文学の第一人者であり、画家でもあった」(同上:97)蕪村でも同じであったと思われる。
いくら「宗匠」になったのが55歳(1770年)という「異例に遅い年齢」であったとしても、画業そのものは1751年から専心していた(『日本歴史大事典』小学館、2007)のであるから、「物とてもほとんどなく、すべては身一つひっさげていけるほどのもの、旅の道具と異ならぬ物しかない」(中野、前掲書:106)とは到底思えない。
『清貧の思想』に登場しない人々同じく「清貧」ではありながら、西行の生きた12世紀から良寛が亡くなった19世紀までの間で、中野が取り上げなかった人々の代表は農民である。「数から言うならば国民の八割九割までが、昔ながらの農民であった時代」(柳田、1930=1976上:218)であったが、作品が残されていないことでその事情を手繰れなかったのか。
さらに、「初期の貧窮は今よりははるかに猛烈であったにもかかわらず、それが忍びやすかったまた一つの理由は、簡単にいうならば同勢の多かった」(柳田、1930=1976下:147)もあげられる。
天明の飢饉(1782〜87)や天保の飢饉(1833〜36)では、「買おうと思っても売る米がどこにもないために、小判の袋を背負うて餓死していた者があったという話も伝わっている」(同上:148)。そして「普通にまず死ぬのは貧しい者ときまっていた」(同上:148)。
このような事情を学ぶと、「清貧とは単に貧しいことではない。自然といのちを共にして、万物とともに生きること」(中野、前掲書:228-229)とはとてもいえない。なぜならそのような「清貧」では、「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(『徒然草』第九十三段)が災害によって瞬時に奪われるからである。
「清貧の思想」時代の地震災害柳田は、「人はその一時の現象をもって与えられたるもの、すなわちお天気の晴雨や地震雷鳴(らいめい)のごとく、人力をもっていかんともすべからざるもの」(柳田、1939=1977上:17)と考えていた。そこで、中野が論じた歴史上の人物が生きた時代の地震災害史を簡略にまとめてみる注5)。