願い事を書いた短冊を笹に吊るす「七夕」は、織姫と彦星が会うことを許された1日とされます。
この七夕がどのような行事なのか、その由来にはどのような歴史があるのかをここでは解説します。
目次
七夕の由来
五節句のひとつ「七夕」
七夕の由来
七夕は、いくつかの伝承や行事が合わさったことで現在の形となりました。
ここでは、その由来となったとされる伝承や行事について見ていきましょう。
中国発祥の「織女と牽牛の伝説」
七夕の由来のひとつとされるのが、七夕の物語としてもよく知られている「織女牽牛伝説」です。
織女牽牛伝説というのは、織姫こと「織女」と彦星とも呼ばれる「牽牛」の物語です。
この織女と牽牛の名前がペアで登場するのは、春秋戦国時代にまとめられた『詩経』という中国最古の詩篇が最初とされています。
中国最古の詩篇に出てくるという非常に古くから伝わる物語なので、他にも多くの書物で七夕の物語として織女牽牛伝説は語られています。
天帝の娘である織女は、牛飼いの牽牛と恋に落ちました。
そんな2人の結婚を織女の父である天帝は許すのですが、織女は結婚するとこれまで任されていた雲錦を織るという仕事をぱったりやめてしまいました。
結婚することは認めていても、天帝は仕事をやめることは許していなかったので大いに怒り、天帝は2人を天の川を挟んで引き離しました。
しかし、永遠に会えないようにするのではなく、年に一度1日だけは2人が会える日を設けました。
それが7月7日とされ、七夕のはじまりとされています。
ちなみに、夏の大三角を構成する、こと座のベガが織女、わし座のアルタイルが牽牛とされています。
古代中国の風習「乞巧奠」
七夕には、短冊に願いを書いて笹に吊るすのが定番となっています。
しかし、これは日本独自の風習なんだとか。
とはいえ、原型となった風習があります。
それが中国で行われていたという「乞巧奠(きこうでん)」です。
前漢の時代の中国では、織姫のように機織りや裁縫が上達したいと願いを込めた星祭が女性の間で行われるようになりました。
それが「乞巧奠」です。
この乞巧奠では、七夕の夜に女性たちは7本の針の穴に糸を通し、捧げ物を庭に並べていました。
こうすることで機織りであったり裁縫の腕前が上達することを祈っていたのです。
この乞巧奠が奈良時代の日本に伝わり、平安時代の頃には宮中行事として定着しました。
すると、貴族文化と交わったことで本来の裁縫の上達ではなく、和歌など「芸事」の上達を願う行事となりました。
さらに時代を経ると、七夕は民衆にも広まっていきました。
その中で、芸事の願い事はさらに拡大解釈され、願い事全般が短冊に書かれるようになり現在に至るのです。
「たなばた」と読みはどこから来た?
「たなばた」と読む七夕ですが、その漢字表記の本来の読みは「しちゆう」となります。
これが「たなばた」読みが定着しているのには、「棚機津女(たなばたつめ)」という言葉が関係しているともされています。
この棚機津女というのは、古代日本で機織りをしていた女性のことです。
縫い物や機織りを司り裁縫の上達を七夕で願われる織女と、この棚機津女をかけて七夕は「たなばた」という読みになったのではないか、という説があります。
五節句のひとつ「七夕」
七夕は、江戸時代に幕府によって選定された「五節句」のひとつとして選定されました。
五節句とは
日本では、中国の陰陽五行説をもとに、年中行事を行う日として「節句」というものが独自に誕生しました。
しかし、数が多すぎるなどの理由から江戸幕府は5つに絞り、公式な行事であり当日を祝日としました。
1月7日の「人日」は七草の節句、3月3日の「上巳」は桃の節句、5月5日の「端午」は菖蒲の節句、7月7日の「七夕」は笹の節句、9月9日の「重陽」は菊の節句。
この5つが「五節句」です。
七夕にはなにをする?
現在、七夕では「笹飾り(七夕飾り)」を飾り付けるのが定番となっています。
この笹飾りには、願い事を書いた短冊も含まれています。
また、「そうめん」を食べる風習もあります。
元々は中国から伝わった「索餅」という食べ物が食べられていました。
これは、7月7日に熱病で亡くなった皇帝の子供が悪霊となり熱病を流行らせたため、霊を鎮めるために好物だった索餅をお供えしたところ病気の流行が収まったという言い伝えに由来します。
本来は7月7日の行事であり、七夕に由来するものではないのですが、七夕の風習に取り込まれました。
しかし、日本では江戸時代頃から索餅が食べられなくなったことから、代わりにそうめんを食べるようになったとされます。
また、白く長いそうめんを織女と牽牛が再会する天の川に見立てたともされています。