アメリカに憧れた20代、その後、興味は欧州車に
ボクがクルマに「具体的な憧れ」を抱き始めたのは中学に入った(1953年)ころである。まず憧れたのが、「アメリカ車」だった。
そのころから、アメリカ車は「ドリームカー」と呼ぶにふさわしい華やかさをまとい、V8を中心としたエンジンも強力だった。この時期、ヨーロッパでも多くの名車が生まれた。だが、当時のボクは外見の華やかさやエンジンの大きさ、といった単純な価値観でしかクルマを見ていなかった。音楽や映画をはじめとした文化面でも、アメリカへの憧れ一辺倒だった。
だから当然のようにアメリカ車に昂った。とくに、長いテールフィンの2ドアハードトップ車に憧れた。そして23歳(1963年)の若さでドリームカーを手に入れた。1957年製のデソート・ファイアスイープである。オフホワイトとサーモンピンクの2トーンで、エンジンは5.7リッター・V8を積む。文句なしだった。
デソートはクライスラー社のブランドで、当時は多くの人の憧れだった。だが、あまりに燃費が悪く、早々に手放さざるを得なかった。とはいえ、自分自身で大きな夢を手に入れたという点で、最高に昂った1台だった。
大学に入ったころからはヨーロッパ車にも目が向き始めた。中でも1964、65年、67年にモンテカルロラリーを制したクラシック・ミニには、当然ながら昂った。とくに世界を熱狂させた1275クーパーSに夢中になった。で、その原点ともいえる「ダウントン・ミニ」にどうしても触れてみたくなり、ロンドンのダウントン・エンジニアリングを訪ねた。1964年のことだ。
スペックはいっさい教えてくれなかったが、赤と白に塗られたダウントン・ミニは、身震いするほど速かった。ほとんどレーシングチューンのようなパワーと速さを示しながら、街中をリラックスして走れるフレキシビリティも兼ね備えていた。身のこなしも文句なし。郊外のカントリー路を走りながら、ボクは昂り、舞い上がっていた。貴重な思い出だ。
1984年に乗ったアウディ・スポーツクワトロのスペシャルモデルにも無茶苦茶に昂った。
突然アウディからお呼びがかかり、単身ミュンヘンへ。ミュンヘン空港にはアウディ技術部門の重鎮がスポーツクワトロで迎えに来てくれていて、そのままアウトバーンを走った。
たぶん、WRC仕様をベースにしたクルマだったのだろう。その速さもブレーキの強力さもハンパではなかった。ボクはアウトバーンを270km/hで飛ばし、超高速域からフルブレーキングし、郊外路の見通しのいいコーナーでは鋭角なドリフトにトライした。そんなボクの走りに、同行したアウディのエンジニアは「岡崎さんが存分に楽しまれたことを彼に伝えます。喜びますよ!」と。
「彼」の名前は明かさなかったが、その人がフェルディナンド・ピエヒであったのは間違いない。そして、このスポーツクワトロがピエヒの個人的なクルマであったことも……。
見て触れて昂ったクルマは数多くある。その中には、1977年から数年前まで続いた新型車の開発時に乗った、初期段階試作車が入ることを書き加えておこう。
【プロフィール】おかざき こうじ/モータージャーナリスト、1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部在学中から国内ラリーに参戦し、卒業後、雑誌編集者を経てフリーランスに。本誌では創刊時からメインライターとして活躍。その的確な評価とドライビングスキルには定評がある。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員
提供元・CAR and DRIVER
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