私たちは「舞台」には問答無用でただ放り込まれる。退場の仕方やタイミングを自分で決めたい人がいても、自分の足で行くのが難しい人に懇願されたとき杖を与える人がいてもよいのではないか。

ここまでお読みいただいて、あたかも私が「死にたい人は死ねばいい。そうすれば楽になれるのだから」と言っているように思われた方がいるかもしれないが、決してそうではない。

死にたくなるほどつらいことがあったら、あるいは長年つらい状況に身を置いていて限界を感じているなら、まずは立ち止まって休息を取るべきだし、少し落ち着いたら誰かに相談したほうがよいし、経済的な困窮なら生活保護の窓口へ行くべきだと思う。

ところが、精神的に追い詰められていると、悩みを誰かに打ち明けようという気力すら湧いてこないという話をよく聞く。勿論そのような精神状態になるまで我慢してはいけないのだが、忍耐を美徳とし、周囲に迷惑をかけてはいけないとする(それには良い面もあるが、行き過ぎはいけない)日本社会では、心が壊れるまでひたすら我慢してしまう人は少なくないはずだ。

避けるに越したことはないとはいえ、自死であろうと、止むに止まれずそれを手助けする行為であろうと、そうしたものに社会が「負の烙印」(スティグマ)を押そうとすればするほど、逆に苦しい人をますます追い詰めることになるのではないだろうか、あるいは既に家族が自死している場合は遺された人たちを二重に傷つけることになりはしまいか、と私は危惧している。

田尻 潤子 翻訳家。翻訳業の傍ら、「死にたい気持ち」を吐露できる掲示板サイト「宛名のないメール」サポーターとして様々な悩みに返信している。訳書に「敵に居場所を与えるな」(ルイ・ギグリオ著)がある。ウェブサイト:tajirijunko

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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