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全盛期は短かったものの、強烈な印象を残した軽オート3輪
1960年代の日本では、せいぜい富裕層や官公庁、大企業向け、あるいはせいぜいタクシー用だった自動車が、高度経済成長期の技術革新と所得増加に伴い、個人向け乗用車の「マイカー」に適したクルマが生まれるなど、時代と文化が大きく変わる時期でした。
それは商用車でも例外ではなく、それまで使っていた大小のオート3輪から4輪のトラックやバンへの切り替えが急速に進みましたが、その過渡期である1950年代末から1960年代前半にかけ、短く熱いブームとなったのが軽オート3輪です。
中でも今回は、1960年代を通して長く生産・販売され、軽オート3輪の代表車種となったダイハツ のMP系ミゼットと、「けさぶろー」ことマツダ K360を中心に紹介しましょう。
大型高級化の末に低価格4輪トラックへ駆逐された3輪トラック
戦前から運転が許可制で免許不要だった小型車を中心に、小規模事業者向けの軽便な運送手段として発展した3輪トラックは、戦後も戦災復興の担い手として駆け回り、ユーザーの要求による大型化と高級化で激しいライバル争いが繰り広げられました。
しかし1954年、トヨタがメカニズム的には古いものの戦後型の新しいエンジンを搭載する一方、思い切ったコストダウンで高級化していた3輪トラックに迫る低価格を実現した「トヨペット・ライトトラックSKB型」を発売。
トヨペットSKBや、他にも各社から登場する低価格小型4輪トラックはフルキャビン化による居住性はもちろん、走行安定性も段違いだったので3輪トラックを急激に駆逐していき、戦前からの全盛期は終わろうとしていました。
2輪と4輪の中間を担う「軽オート3輪」の短いブーム
自動車メーカーも3輪から4輪への転換を図る一方、何度かの規格改定で3輪/4輪でも実用性を得られる動力性能のメドが立っていた軽自動車枠で、大型・高級化していたオート3輪を原点に戻すよう試みられ、1952年にホープ商会から軽オート3輪「ホープスター」が登場。
1957年には戦前からの名門ダイハツが「ミゼットDKA」で、戦中までの愛知航空機が戦後に民需転換、関連企業から製造権を得たオート3輪メーカーとして再出発した愛知機械工業も「ヂャイアント・コニーAA27」で軽オート3輪へ参入しました。
それまで、個人商店や零細企業レベルの貨物輸送は、頑丈な2輪オートバイや補助エンジン付き自転車のモペットが担っていたものの、軽オート3輪は従来の3輪トラックや新たな4輪トラックより軽便でもはるかに安く、2輪とは安定性も快適性も段違い。
かくして、「小型トラックを導入するほどではないものの、2輪ではちょっと物足りなくなってきた事業者」に軽オート3輪はヒットします。
しかし、小型トラックが3輪から4輪になったのと同様、軽自動車でもいずれユーザーが4輪を選ぶのは明らかであり、どの軽オート3輪メーカーも、並行して軽4輪を開発していました。
ミゼットのダイハツは「ハイゼット」、K360のマツダは「B360」、レオの三菱は「三菱360」、愛知は「コニー360」、ホープは「ユニカーNT」といった顔ぶれで軽4輪商用車を開発し、東急くろがね工業(ベビー)や富士重工(サンバー)はいきなり軽4輪へ。
しかしそこで企業ごとの体力差が明らかとなり、ダイハツ、マツダ、三菱、富士重工以外は自動車メーカーとして存続できず、全て1970年までに独自の自動車生産から撤退してしまいました。
軽3輪から軽4輪への過渡期は、自動車メーカーとしての「ふるい」にかけられた時期でもあったのです。
大ヒットしたダイハツ ミゼットの丸ハンドル版MP」シリーズ
軽オート3輪で最大の代表格と言えるのがダイハツの「ミゼット」シリーズで、1957年に発売したDKA型に始まる初期は古いバーハンドルで一部を除き1人乗り、前面風防と幌を使ったキャビンがあるだけマシと簡素なモデルでした。
しかしそこは戦前からの名門、全国への充実した販売網とオート3輪による長年の実績、大村崑を起用したTV CMを積極的に打つなど大々的な広告戦略で売り込んで大々的にヒットし、1959年にはライバルが先行していた丸ハンドル版の「MP」シリーズも発売。
丸ハンドルで並列2人乗りが可能となり、荷台の長さを変えずに助手の同上も可能となったミゼットMPシリーズはエンジンやキャビンの改良を続け、決定版として1962年に登場したミゼットMP5では軽4輪と遜色ない全鋼製フルキャビン化も達成します。
混合給油から分離給油式の「オイルマチック」エンジンなど近代化は多岐に渡り、軽四輪トラック/バンの「ハイゼット」が1960年に発売以降も安価で軽便さを武器に併売され、1972年まで販売される、軽オート3輪最後のロングセラーモデルとなりました。
1980年代半ば頃までは街でも時々見かけるほど長く使われ、現在まで「高度経済成長期の日本」を再現した映像作品などでは、レストア/保存されているミゼットDKAシリーズやMPシリーズが、往時を代表する車種としてよく使われています。
マツダの年間生産台数日本一に貢献した「ケサブロー」K360
短期間で軽オート3輪に見切りをつけたコニー(愛知)や三菱と異なり、ダイハツともども長期にわたって生産されたのが、「ケサブロー」の愛称で親しまれた、マツダのK360です。
しかし、1950年代後半当時のマツダは、戦前から3輪トラックの名門として双璧だったライバル、ダイハツが3輪と4輪の併売を狙ったのと異なり、3輪には早々に見切りをつけており、1958年に発売した「ロンバー」を足がかりに、一気に4輪化しようとしていました。
他社の軽オート3輪を「どうせ一過性のブーム」と断じた松田 恒次 社長(当時)の考え方も間違いではありませんでしたが、マツダ社内ではせっかくの商機を逃すまじという声もあり、社長にも隠した極秘プロジェクトとしてK360を開発します。
それも鋼製フルキャビン、丸ハンドル、強制空冷4サイクルV2ツインエンジンと一足飛びに近代化し、デザインはもちろん当時のマツダお得意である工業デザイナー、小杉二郎氏によるモダンなもので、これには社長も首を縦に振らないわけにはいきません。
しかもK360は、249~305cc単気筒エンジンのミゼットより大排気量のV型2気筒356ccで、さらに577ccへ拡大した小型車登録のT600のため、軽オート三輪としてはオーバースペックともいえる静粛性や快適性、操縦安定性を誇ります。
漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」では、オート3輪レースにK36譲りの小型軽量ボディに、パワフルなエンジンを積むT600で挑むエピソードがあるなど、K360/T600は知名度こそミゼットほどではないもの、オート3輪末期の名車でした。
結果的にT2000を1974年まで生産・販売し、ダイハツより長くオート三輪を手掛けたマツダですが、軽オート3輪はミゼットMP5より早く1969年に、T600も1970年には生産を終えています。
なお、マツダは1960年から1962年まで「自動車の国内生産台数日本一」を誇りましたが、そのうち3割をK360が占めており、「マツダが日本一の生産台数を誇るメーカーだったこともある」という栄光の歴史に、大きな役割を果たしました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
文・MOBY編集部/提供元・MOBY
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