他人の評論家は最下層の人格
こんなことをいうと厳しい反発も予想されるが、構わず意見を言わせてもらうと、他人を必死に批判する人は人格としては最下層に近い存在とされるのも仕方がないと思っている。根拠を話したい。まず、余暇時間をどう過ごすかは本人の好きにすればいいし、法に触れる誹謗中傷でなければ我が国において批判は自由だ。そして建設的な批判なら有益である。クリエイティブの世界においては、批判が次の名作を作ることもある。やりたい人は好きにすればいい。
だが、たった1回しかない人生の活用法として自分自身の人生を評論することを棚上げし、限られた時間を他人の評論ばかりすることは果たして本当に人生におけるプライオリティは高く、有意義な活動と言えるのだろうか?
「発信者なら批判意見も受け入れる器を持て」という免罪符を掲げ、自分は匿名アカウントで反撃を受けない安全地帯に隠れ、リスペクトを欠き、脳内に浮かぶ言葉を無編集で相手に投げつける行為は、果たして「器」を持った人物による行為といえるだろうか?筆者からするととても稚拙で子供じみていると感じてしまう。
実際、子供は気軽に批判をする。自分は保育園、小学生の子供がおり自分の子以外とも会話する機会がよくあるが、彼らは自分の好き、嫌いを自由に語り、その話を大人に共感してもらいたい欲求が透けて見える。未熟な子供ならそれでもいい。成長とともにそれは抜けていく。だが立派な大人がそれでいいのだろうか?
本来、建設的な批判をすることはかなり高度な知的活動である。大局的、多面的、相対的、絶対的基準に基づき、感情を排除して冷静に事実ベースで行われる必要がある。感じたことを無編集に撒き散らすだけなら、それは飲み屋でのつまらない愚痴レベルの域を出ることはないだろう。
筆者は他人の評論をするより、自分自身の生き方や考え方、決断の評価などを評論する方が有意義だと考える。なぜなら他人にダメ出しをして自分の人生が向上することは一切ないが、自分の人生を冷静に評論し、必要な反省をすれば間違いなく自分の人生は良くなるためだ。
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人格は生まれつきの才能や器ではない。マズローの5段階欲求説に基づき、1つ1つ下位の欠乏次元を登っていき、承認欲求の壁を破ることができたならば自己実現欲求に至る。自己実現欲求を利他的行動につながる活動にあてれば、必然的に他者の夢を手助けする者になる。一度しかない人生、できればこの人格を目指すのは有意義な生き方ではないかと思っている。
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