その孫でタタール人の母を持つイワン4世(雷帝)の強引な中央集権化に反発して混乱期が続くなかでイワン4世の子であるフョードル帝の死後、その義父であるボリス・ゴドノフが即位したが、やがて、イワン4世(雷帝)の妃の兄の孫であるロマノフ王朝の始祖ミハイルが擁立された。

ロシアの大国としての基礎を固めたピョートル大帝のあと、その妻や親族など女帝が即位したこともある。大帝の娘でドイツのホルシュタイン・ゴットルプ公妃になったアンナの息子がピョートル3世として即位したものの、あまりにも頼りなかった。そこで、ピョートル3世の又従姉妹である皇后(アンハルト=ツェルプスト侯というドイツの小領主出身)が聡明だというので擁立された。これが、エカテリーナ2世である。

ロシアの大国としての基礎を固めたピョートル大帝 Wikipediaより

ヴォルテールの友人で典型的な啓蒙君主だった彼女が、ロシアを近代国家にしたが、私生活においては多くの愛人を持った。とくに、ポチョムキンは私生活でだけでなく政治的にも共同統治者に近い存在だった。そののちの皇帝は、革命時に殺されたニコライ2世に至るまで、ピョートル3世とエカテリーナの間の子であるパーベルの男系の子孫であり、イギリスなどの王室と縁組みを繰り返した。

最後のニコライ2世の皇太子は血友病に悩まされ、それが怪僧ラスプーチンの跳梁を許したが、この血友病はヴィクトリア女王に始まるものだ(突然変異によるといわれる)。このアレクセイは皇帝とともに殺された。

そこで、皇位継承権を引き継いだのは、ニコライ二世の弟ですでに亡くなっていた、ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年-1909年)の子孫たちとなった。

キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年-1938年)は、1924年にロシア皇帝位の継承を宣言し、それは、その子の、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年-1992年)、ウラジーミルの娘であるマリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年-)と引き継がれ、その夫であるミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)との子であるゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年-)がプリンスである。

このほかに、ニコライ一世の子、ニコライ・ニコラエヴィチの系統が継承権を主張してきたが、ドミトリが2016年に死去してどうなったのだろうか。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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