日本に宣戦布告する前に、ソ連は他の連合国と協議の上で日本に降服し、戦闘をやめるように提案した。ソ連はドイツとの戦いで大きな損害を被っていたので、これ以上の双方が損害を出すことは避けたいと思っていた。しかし残念ながら日本は提案を拒否した。そしてソ連は他の連合国との義務に従って、対日戦争に入った(ファーネスの反論あるも聴取不能)。
ルニュフの報告と質疑応答はこれで一旦終わった。が、シンポの掉尾に家永三郎が行った「東京裁判の歴史的意義」と題する報告は、ソ連の立場を擁護する形で再びこの件に触れた(要旨)。
家永の主張東京裁判が「勝者の裁判」としての側面を持つことは否定できない。連合国側の違法・犯罪行為がはじめから審理の外に置かれていたこと、ことに広島・長崎への原爆投下の如き無差別大量虐殺が取り上げられなかったことは、パル少数意見の指摘する通りだ。
原爆投下以外にも、通常兵器による多数の非戦闘員殺傷を行った米空軍の爆撃や、ソ連軍人による日本人非戦闘員に対する殺傷・略奪・強姦等、これは旧満州、中国東北で起こったことであって、私は、日ソ中立条約は日本が先に破ったと考えているので、日本にはソ連を非難する道義的な資格がないと信じるが、しかし旧満州におけるソ連軍の非人道的行為は免責されないと思う。
関東軍特種演習(関特演)については、林健太郎氏との論争で詳しく論じているが、簡単に申せば、それは単なる軍備の増強ではなく、41年7月2日の御前会議に基づき、天皇の允裁を経て参謀本部が動員令を出して、八十万の大軍をソ連国境に集結、シベリアの占領行政の計画や開戦後の満洲国の取り扱いまで定めた戦争準備の行為であり、戦闘行為に移らなかったのは客観的情勢が好転しなかったからで、自発的に日ソ中立条約に忠実ならんとして中止したのではない。
つまり、ルニョフが太字部分にいう「41年の日本対ソ侵攻計画の準備」とは家永のいう「関特演」であり、それによって日本はソ連に先んじること4年前に日ソ中立条約を破っていたという訳である。林健太郎との論争について家永は『戦争責任』(岩波現代文庫)でこう述べている(要旨)。
林氏は、法律は実際に行われた行為に対して適用されるもので、心の中で考えたことは法の適用の範囲外であり、関東軍にどんな計画があろうと、それが実行されなかった以上、法律の問題は生じない、と主張したが、具体的な行動を伴っていた。領土の侵犯は実行されなかったが、法律は既遂行為の責任を問うばかりでなく、危険性の大きい重大な行為については、未遂、あるいは予備・陰謀の行為の責任を問う。
同書では家永は、ルニュフが、張湖峰やノモンハンで「ソ連に対して日本がとった侵略的軍事行動はソ連の軍事力を試す機会だった」と述べたことについても、ルニョフと全く同じ主張をしている。
家永はこう言う。すなわち、45年8月に対日攻撃を開始するまでソ連=ロシアによる日本国内侵略は、幕末の対馬占領を除いて、行われていない。が、日本は、第一次大戦末期のロシア革命で社会主義政権が成立すると、英仏米と共に反革命軍を援助して革命政権の確立を妨害する干渉戦争を行い、22年まで東部シベリアと樺太北部の占領を継続した。
中国侵略から始まった15年戦争では、日本軍部は中国を前進基地としてソ連侵略の意図を抱いていた。たとえ国家意志として採用されなかったとしても、軍内部に潜在する対ソ侵略意図の表れと見てよい。日本軍は、朝鮮や満州とソ連との「国境線が不明瞭」であるのに、国境地域でのソ連軍の行動を「不法」と見做し、故意に衝突を惹起させて局地戦争を繰り返した。
(中編に続く)