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「沖仲士の哲学者」として知られるエリック・ホッファー氏は、真の言論人に避けがたい悲哀を見ていました。かれは神聖な大義のために心身を捧げる人間の集団的行動を解明した社会学の古典『大衆運動』において次のように語っています。
真の言論人はけっしてみずからの批判能力を、心からまた長期にわたって抑制することができないので必然的に異端者の役を与えられることになる。
(『大衆運動』紀伊国屋書店、1961年、167頁)
なぜ言論人は「異端者」の烙印をおされてまで、批判をしなければならないのでしょうか。それは、間違った主張や言説、仮説、常識、思想などを批判により地道に退けることが、われわれを正しい判断に近づけてくれるからです。
政治の世界において、ある主張が絶対に正しいと確証することは、ほとんど不可能です。ましてや、多種多様な政治的価値に優先順位をつけるなど、どうすればできるのでしょうか。
国家主権、独立、安全保障、民主主義、福祉、人権、自由、環境保全などが、他の価値を損なうことなく実現することなど、めったにありません。それぞれの政治的要因は、基本的にトレード・オフの関係なのです。たとえば、「国家の安全保障のために、どこまで人権を制約することが許されるか」という問いに、民主社会の全てのメンバーが納得する解答などありません。
われわれが利用できる真実や真理に近づく方法は、政治の領域において、あらゆる思考を批判や反証にさらすことにより、俗説やドグマ、間違った仮説、危険な思想やイデオロギーを丁寧に却下する以外にありません。つまり、批判とは、国家や社会の公共利益をより高める営みであり、より信頼できる議論を残していくことなのです。
空気に水を差さない言論人私たち日本人は、総じて批判を嫌います。なぜならば、日本社会において、批判とは「空気」に「水を差す」行為に他ならないからです。
山本七平氏による名著『空気の研究』は、多くの日本人に読み継がれています。本書でいう「空気」とは、言論空間における支配的で異論を許さない道徳的ナラティブのことです。こうした「空気」は我が国を何度に愚行に導きました。戦艦大和の沖縄への出撃は、その1つの例に過ぎません。
国家や社会の損失につながりかねない空気は、水を差さないと変わりません。このことについて、山本氏は以下のように言っています。
「『空気』とは一体何であろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯が立たない”何か”である…『空気』とは、まことに大きな絶対権をもった妖怪である…一つの宗教的絶対性をもち、われわれがそれに抵抗できない”何か”だ…戦後の一時期われわれが盛んに口にした『自由』とは何であったのか…それは『水を差す自由』の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である…戦争直後『軍部に抵抗した人』として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の『空気』に『水を差した人』だったことに気づくであろう…われわれは今でも『水を差す自由』を確保しておかないと大変なことになる」(『空気の研究』文藝春秋、1983年、16, 19, 31, 171頁)。
この山本七平氏の警句は、40年前に発せられたものです。ひるがえって、現在を生きるわれわれは「水を差す自由」を十分に持っているのでしょうか。答えは「ノー」でしょう。
ロシア・ウクライナ戦争は、日本人が「水を差す自由を尊重している」かどうか、厳しくテストしています。そして、残念ながら、われわれは、このテストに落第しつつあります。なぜならば、この戦争をめぐる「空気」すなわち「邪悪なロシアをウクライナが敗北させる」という論壇やメディアでの支配的な言説に対して、ほとんど誰も「水」を差そうとしないからです。
政治学者の中で「異端者」すなわち「親露派」の烙印をおされる覚悟をもって、ウクライナに寄り添うべきだと信じて疑わない人々を批判する学者は、真のリアリストを除けば、あまり見当たらないありさまです。
「消耗戦の行方を左右する火力においてロシア軍に劣勢であるウクライナ軍の反転攻勢は、はたして『戦艦大和の出撃』のような無理はないのだろうか」。
「ウクライナ軍が同国の東部のみならずクリミア半島からロシア軍を排除する、実現可能な戦略はあるのか」。
こうした問いは、決して突拍子のないものではありません。にもかかわらず、こうした疑問を口にすることさえはばかられる「空気」が、日本をおおっています。だからこそ、私たちは山本氏の戒めに、今こそ耳を傾けるべきなのです。
誤解が生まれないように断っておきますが、わたしはロシアを擁護したり、プーチンの政治的行為に「免罪符」を与えたりする意図を持ちません。同時に、私はウクライナを貶したり、ゼンレンスキー大統領を愚か者と呼んだり、ウクライナ軍を無能だというつもりも全くありません。
私が言いたいのは、この戦争の言論を支配する「空気」の呪縛を意識して、そこから脱却する自由の価値を再確認することが、健全な民主社会を維持するのに不可欠だということです。我が国における論壇の健全性と言論の自由を守るためには、「知識人」こそが必要に応じて、ロシア批判やウクライナ批判、日本批判を率先して行わなければなりません。