明治政府が「徳川」を抹殺

もう一つの理由として考えられるのは、維新以後、薩摩・長州出身者が牛耳る明治政府は、「徳川」の匂いのするものはすべて否定し、徳川幕府の業績も、開祖・家康の功績もすべて歴史から抹殺しようとしたからでしょう。

信長と秀吉の場合、死去により、織田家と豊臣家は共に滅びたのに、徳川家は15代、2世紀半も永続し、多くの実績を残したから、それだけ明治新政府は、警戒し忌避したのです。時の権力者が前任者の業績を全否定し歴史から削除しようとするのはよくあることです。

余談ながら、幕末に尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中で、初代外国奉行として、米国の初代総領事ハリスと交渉して日米修好通商条約を調印し開国への道を開いた、三河縁故の岩瀬忠震(ただなり)の功績が葬り去られたのも同じ理由によると考えられます。

長篠・設楽原のミステリー

そういう意味では、家康と徳川幕府の歴史的意義は今後さらに再吟味されるべきで、近年の歴史学者の努力によって、様々な史実が明らかとなり、歴史上の人物や業績の再評価が進んでいるのは、健全な流れだと思います。

なお、これも余談ですが、織田・徳川連合軍と武田騎馬軍団が激突した長篠・設楽原合戦(1575年)では、信長のアイデアで鉄砲3,000丁(一説によれば1,000丁)を三段構えで撃ったというのはどうやら間違いで、実際にそんなことは不可能だという説が有力になっているとか(※)。

とかく、戦記物には語り手の偏見や後世の歴史家や講談師の勝手な脚色が多いようなので、眉に唾を付けて読んだ方がよいと思います。

(※)「長篠・設楽原の戦い 鉄砲玉の謎を解く」小林芳春著、黎明書房 2017年)第三章など。

さて、最後に私は、国際政治の研究者として、家康が築いた徳川幕府の外交政策に大いに関心がありますので、その観点から、幕府による鎖国政策について少し触れておきたいと思います。

鎖国政策の利害得失

家康が生前、西欧列強による日本の植民地化を警戒して、外国との交流・交易に否定的で、キリシタン弾圧を行ったことは確かですが、一方で、英国人ウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)を外交顧問として重用し、世界の動静に関心を持ち続けたことも事実です。しかし、彼の死後、3代将軍家光の時代に「鎖国令」(1639年)が布かれ、オランダとだけ長崎の出島を通ずる交流を認めた以外には一切の交流を禁止しました。

このことが、その後の日本にどのような影響を与えたかについては、歴史学者の間でも様々な議論があり、私も一家言を持っていますが、ここでは紙面の都合で深入りしません。

ただ、はっきりしていることは、徳川幕府の鎖国政策の結果、日本は西欧列強の餌食にならず、独立国として平和裡に暮し、独自の文化を育み、経済的な実力を蓄えることができた。だからこそ明治維新以後、驚くほどの短期間に文明開化と工業化に成功し、一流国の仲間入りを果たした。このことは、明らかにプラスの評価に値します。「眠れる獅子」の中国(清)の醜態を見れば、疑う余地はありません。

他方、もし鎖国をせず、諸外国との自由な交流をしていたならば、そして、もし幕府が自力本願の外交姿勢を貫いていたならば、経済はもっと繁栄し、日本人はもっと開明的になり、外国語(英語かフランス語かスペイン語)を自由に喋るようになっていたでしょう。英国の植民地だったインドやシンガポール、米国の植民地だったフィリピンを見れば明らかです。しかし、その代り、日本が現在のような日本であり得たかどうかは疑問でしょう。

現在の日本人が外国語苦手、外交下手だなどと言われるのはもっぱら徳川幕府の鎖国令のせいですが、もし鎖国していなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれません。要するに、江戸時代の評価には当然ながらプラス面とマイナス面があるということで、簡単に結論が出る問題ではありません。そこに歴史を学ぶことの醍醐味があります。

(2023年6月19日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。