黒坂岳央です。
10代後半以降からずっと死について考え続け、関連する書籍を読み漁ってきた。こういうことを人前で言うと眉をひそめられてしまうのだが、個人的に死を意識して生きてきて良かったと思うことは少なくないと思っている。独断と偏見のみで個人的な見解を取り上げたい。

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「囚われる」という漢字には「人が箱に閉じ込められている」というイメージがある。とてもよくできた漢字だと、作成者の力量に感心させられる。文字通り、囚われるとは人が閉じ込められている状態を指している。そして往々にして、それは物理的に束縛されているのではなく、精神的意味合いで自縄自縛になっている状態が多い。
死を意識すると、小さなどうでもいいことに囚われることがバカバカしくなる。自分はたまに赤の他人から激しい中傷をされたり、大事な相手をこちらの落ち度でがっかりさせてしまったりと落ち込む瞬間がある。普段は気にならないことでも、どうしても気弱になるタイミングは誰しもあるだろう。
しかし、そんな時に自分を救ってくれる考え方がある。それは「一年後も自分はこのことで悩んでいるだろうか?」というものだ。99%の場合、そんなことはない。1年後はおろか、1ヶ月後、いや1週間後はもう忘れているだろう。この考え方にたどり着いたのは「死という終着点から現在地を逆算して思考する」ことから生まれている。
小さな課題でも解決が必要なことはもちろんあるし、軽視してはいけない問題も少なくない。だが、根本的に課題は解説済みであり、後は心の傷は時間の経過だけが癒やしてくれるという状況になったのならいつまでもウジウジ囚われずにスパッと忘れた方がいいのではないだろうか。
2. やりたいことは今すぐ子供の頃、一番のお楽しみはいつも先送りにしていた。親からもらった「1日1つのおやつ」を自分のおやつボックスに放り込み、「いいことがあったらまとめて食べよう!」と楽しみをひたすら貯金していた時期があった。
しかし、自分の誕生日が到来し、いざそのタイミングがやってきてためていたお菓子を食べ始めてもそんなに幸福感はない。むしろ、甘いものが続くと胸焼けがする。幸福を一括で味わうことはできないと理解してもうやめた。