大清帝国とは
清国が多民族国家として円滑にスタートできて、しかも、300年近く維持されたのは、康煕帝、雍正帝、乾隆帝がまれに見る名君だったことによります。乾隆帝の晩年にはちょっと疑問符がつきますが、康煕帝と雍正帝にはほとんど悪口が出ません。
康煕帝(1661年〜1722年)は黄河の治水や大運河の改修、海禁政策の見直しによる銀の不足解消などで経済は活発化しました。宮廷生活は明に比べて質素にしましたが、熱河の承徳離宮は立派なものにして、夏にはモンゴル族などの有力者と狩猟を楽しみ、天幕で生活して彼らとの仲間意識を大事にしました。
宣教師たちの助言も受け入れ、ロシアとネルチンスク条約を結んで沿海州方面への南下を防いだので、ロシアは極寒のオホーツクにしか港を得られませんでした。
雍正帝(在位1722~35年)は、1日に4時間しか寝ず、地方官からの上申書にひたすら目を通し、官僚を指揮し、皇帝が意中の名を紫禁城の扁額の後ろに置き、崩御してから開封する「太子密建法」で跡目争いを防ぎ、官吏の給与を上げ、経費も予算化することで、裏金や汚職を排除しました。上皇陛下が大変尊敬されている名君でした。
乾隆帝(在位1735~95年)は、10回の大遠征を行い、全勝したと誇り「十全老人」と自称しました。乾隆帝のときに、清の領土は現在の中国の領土のほか、外モンゴル、それに現在の新疆省の外縁部まで含む広大なものになりました。
世界にまったく門戸を開かなかったのでなく、新大陸からトウモロコシ、ジャガイモ、落花生など新しい作物がやってきて、米も東南アジアから新品種がもたらされ、二期作、二毛作など一年になんども収穫することが一般的になりました。この転換のおかげで、人口も一億数千万人から三億人に倍増しました。
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