明を建国したのは朱元璋だが、長男は若くして死んだので、孫と四男の永楽帝が争い、後者が勝った。永楽帝は、北京(順天府)をまず副都とし、ついで首都とした。そして、現在見るような紫禁城の偉容が整備されていった。しかも、もっと豪華だったたようだ。

永楽帝はまさに習近平のような皇帝だった。傑出した能力で皇帝独裁体制や大胆な対外拡大路線を成功させた。しかし、海外遠征は金食い虫になって国力を削いだ。

南蛮人が来る前に永楽帝は、鄭和の艦隊をアフリカにまで派遣したのに、その後は後退し、南蛮人たちに主導権を取られてしまった。また、倭寇にもやりたい放題されてなすすべがなかった。

鄭和の艦隊を出すような努力を続けたら中国が世界を支配することもできたのにと中国人なら考えるだろうが、無理だったのだ。永楽帝のもとで鄭和の艦隊はアフリカ東海岸まで遠征し、雲南省のイスラム教徒だった鄭和は、宦官として永楽帝に仕え、1405年から1433年まで7回にわたって艦隊を率いて遠征した。

第1回遠征では、インド洋のカリカットに行き、第4回では本隊がペルシャ湾入り口のホルムズ、一部はケニアのマリンディにまで達し、キリンを持ち帰ったので吉祥として受け取られ大成功だった。

そこで、鄭和の成果をフォローしておけば、大航海時代に西洋人に世界の海を支配されることはなかったと中国人は悔しがるのだが、鄭和の艦隊のような大規模なものでは、コストに見合う成果は上がるはずがない。

船団は200隻以上からなり、総勢3万人足らず。幅が56メートル、長さは139メートルの船もあった。半世紀以上もあとにインドに到達したバスコダガマのサン・ガブリエル号は、幅5メートル、長さ25メートルであった。

こんな経済的合理性のないデモンストレーションは長続きするはずもなく、海外進出は放棄せざるを得なくなり、中国人の出国を禁じる海禁政策をとって極めて小規模に限定された勘合貿易だけに特化し、なかば鎖国体制に入ったのである。