【フェルマーの最終定理】の証明はなぜ難しいのか?
解が無限に存在することを示す証明は、比較的簡単に解決される場合があります。
例えば、数学者エウクレイデスは素数が無限に存在するのか? それとも有限なのか? という議論に対して、無限に存在することを証明しています。
その証明は以下のようなものです。
「素数が有限と仮定して、すべての素数をかけ合わせた数に1を足したとき、それは新しい素数になる。
もし割ることができた場合、その数を割れる未知の素数が存在していることになってしまう。
故に素数は有限ではない」
数行に収まるほどの簡潔な証明です。
しかし、無限に組み合わせの作れる数式に解が一切存在しないということを証明するのは非常に困難です。
特にフェルマーの最終定理では、「nは3以上」としか述べられていないため、非常に巨大な乗数の計算まで考えなければなりません。
この問題では「xn + yn = zn」が3乗どころか、100乗でも1万乗でも無限の乗数で計算しても解は存在しないと証明する必要があるのです。
しかし、1万乗とか1京乗なんてところまで計算していったら、ひょっとして神様の気まぐれで1つくらい成立する数が出てくるかもしれません。
実はフェルマーは4乗の場合に解がないという証明はきちんと書き残していました。
それを利用してレオンハルト・オイラーは3乗の場合に解がないという証明を成功させています。
これらの証明から、さらにnが「3の倍数のとき」と「4の倍数のとき」解が存在しないと証明することもできました。
しかし、こんな調子で証明を続けていても埒が明きません。証明するべき「n」は、3以上の無限に連なる数字たちなのです。
この問題を解決するためには、もっと違う視点の考え方が必要だったのです。
【フェルマーの最終定理】”解決の鍵”になった二人の日本人「谷山」と「志村」

ここで少しフェルマーの問題から離れ、戦後の日本に話しを移しましょう。
戦後の日本の数学界では、教授陣がすっかり疲れ果て、研究への気力を失っていました。
しかし若手数学者たちは熱意に溢れていて、コミュニティを作って互いに新しいアイデアについて話し合い、勉強していました。
そんな中に、フェルマーの最終定理解決の最重要人物となる二人の若手数学者が登場します。それが谷山豊(たにやま とよ)と志村五郎(しむら ごろう)です。
1955年、日光で数学国際シンポジウムが開かれます。
日本の若手数学者は自分たちの研究を世界に発信するチャンスだと、このシンポジウムの際に、アイデアをまとめたプリントを世界の研究者たちに配って意見を求めました。
その中に、谷山のある重要なアイデアも含まれていました。それが後に数学界に衝撃を与える重要理論「谷山-志村予想」の雛形となるものでした。
「すべての楕円曲線はモジュラーである」
それが谷山の主張した理論の内容です。
非常に簡潔な一文ですが、ほとんどの人には何を言っているのか意味がわからないでしょう。しかし、これは数学者から見ると思いもしなかった画期的なことを言っていたのです。
谷山はまるで映画にでも出てきそうな、ぼんやり型の天才だったと言われていて、靴紐なんていちいち結び直すのは馬鹿らしいからと結ばなかったそうです。
彼はひらめきが先行していたようで、それは数学で何より重要なことでした。
ただあまりに発想が飛躍しすぎていた谷山のアイデアは、このときほとんどの学者たちに「事実とは思えない」と受け入れてはもらえませんでした。
そして、残念なことに谷山はこのシンポジウムの開かれた3年後に自殺してしまいます。自殺の理由は不明です。
谷山の死後、その意志を引き継いだのは志村五郎でした。
志村は図書館で谷山と同じ本を借りようとした縁で知り合い、それ以来数学研究の盟友となっていました。
彼はなんとか、亡き友人のアイデアを形にしようと、その意味を死物狂いで理解し、アイデアを支える理論付けを行っていきます。
そして発表されたのが「谷山-志村予想」です。
数学における「予想」とは、限りなく真であると考えられるが証明はできていない命題につけられる呼び名です。「予想」が証明されるとそれは「定理」になります。
アンドリュー・ワイルズは「フェルマーの最終定理」を証明した人として世間で話題になりましたが、実はフェルマーの最終定理を直接証明したわけではありません。
ワイルズが成し遂げたのは、この「谷山-志村予想」の証明です。
「すべての楕円曲線はモジュラーである」このことを証明することで数世紀の間、世界の数学者の頭を悩ませ続けた「フェルマーの最終定理」の無限の証明が完了してしまったのです。
これは一体どういうことなのでしょうか?