日本代表が強豪南アフリカに金星をあげたワールドカップ2015、そして2019年には日本でワールドカップが開催されたで一挙に注目の的となったスポーツ競技のラグビー。
エキサイティングな試合運びは、細かいルールをあまり知らなくても楽しめると多くの日本人が知ったことで注目度が近年一番高まったスポーツともいえます。
もちろん、ルールに詳しい方がより楽しめますが。
では、ラグビーはどのようにして生まれたスポーツなのでしょうか? 今回はそんなラグビーの歴史ついて解説します。
ラグビーがサッカーから生まれたのはウソ!その理由とは?
ラグビーの発祥について、「ラグビーはサッカーから生まれた」という人も中にはいますが、それは間違いです! しかし、サッカーが大きく関わっているのは確かなようです。
ラグビーの発祥の時といわれる最初の記録
ラグビーの始まりは約200年前の1823年に行われた、フットボールの試合での出来事に由来するといわれています。
ある試合でウィリアム・ウェッブ・エリスという少年が、ボールを抱えて相手チームのゴールにめがけて走り出したとされています。
これがラグビーの起源だとされています。
もしかしたらこれ以前にも試合中にボールを抱えたまま走り出した人はいるかもしれませんが、現在記録が発見されている中では"ウィリアム・ウェッブ・エリスの行動"が最古のものとなっています。
ちなみに、当時はまだフットボールの統一ルールが生まれる前だったので、一部地域ではボールを持つことや抱えることは許容範囲内でした。
しかし、ボールを抱えたまま走っていいというルールはどこにもなかったので、ウィリアム・ウェッブ・エリスのこの行動はルール破りとなっていました。
ラグビーは「フットボール」の一種として生まれた
ここまでラグビーの始まりについてご紹介してきましたが、中にはもうお気付きの人もいるでしょう。
ラグビーはフットボールから生まれたのであり、サッカーから派生して生まれたスポーツではありません。
これはラグビーが、「ラグビーフットボール」と呼ばれることからも分かります。
ウィリアム・ウェッブ・エリスによる最初の記録以降、ボールを抱えて走る選手は多くなったようで、1940年代にフットボールが盛んな地域の一部で「ランニングイン」が普及、定着化していたそうです。
しかし、このランニングインのルール自体は当時のフットボール界全体で見ると一般的なものとは言えなかったようです。
1863年、ロンドンにある12のクラブ間で行われたフットボールの競技連盟『フットボール・アソシエーション』の発足とルールの統一化に関する話し合いの中で、「ボールを持って走ること」だけでなく、ボールを運んでいる相手選手の「すねを蹴る行為(ハッキング)」「足を引っ掛けてつまずかせる行為(トリッピング)」「体を押さえつける行為(ホールディング)」が禁止となりました。
ボールを持って走るルールでやってきたクラブの中には、このルールを受け入れられないとしてフットボール・アソシエーションを脱退したものもありました。
この時、フットボール・アソシエーションがルールを制定したことで始まったのが現代のサッカーです。
フットボール・アソシエーションを脱退したクラブも1871年に、ラグビーフットボール連合を発足させました。
こうして「ジェントルマンのスポーツ」とも称されるラグビーは統一ルールのもと誕生したのです。
ワールドカップの優勝杯に残る伝説の少年の名
ラグビーの起源といわれる、ウィリアム・ウェッブ・エリス少年は200年近く経った今でもラグビー界では忘れられることのない存在です。
その理由は、ラグビーワールドカップにあります。
ワールドカップで優勝国に贈られる、優勝杯の名前は「ウェブ・エリス・カップ」というのです。
そう、ウィリアム・ウェッブ・エリスの名前にあやかって優勝杯が名付けられたのです。
日本でのラグビーの歴史
ここまでラグビーの起源と歴史をご紹介してきましたが、日本ではいつ・どこでラグビーが始まったのでしょうか? ここからは、日本におけるラグビーの始まりについて見ていきましょう。
日本初のラグビーの試合はいつどこで行われた?
日本で初めてラグビーの試合が執り行われたのは、ラグビーフットボール連合が発足して間もなくの1874(明治7)年のことといわれています。
日本初のラグビーの試合は、イギリスの船員たちが横浜で行ったものとされています。
さすがに当時はまだ、日本人のラグビープレーヤーはいなかったようです。
日本人初のラグビー選手
日本初のラグビー試合が横浜で行われたころ、国内にはラグビーの経験者はいませんでした。
しかしそれはあくまでも国内の話で、1874年時点で国外にはラグビー経験者の日本人が存在したようです。
その人物の名は、菊池大麓(きくちだいろく)。
近代数学を初めて日本にもたらした数学者であり、東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)総長・京都帝国大学(現・京都大学)総長・理化学研究所初代所長・学習院長などを歴任、更には政治手腕を発揮し、貴族院勅選議員・文部大臣を経験した人物です。
この人物がイギリスのケンブリッジ大学に留学していた1872年に、ラグビーの試合に出場したという記録が残っていることから、日本人初のラグビープレイヤーといわれています。
日本へのラグビーの伝来は19世紀末
ケンブリッジ大学への留学生の中から日本人初のラグビープレイヤーが誕生し、日本初のラグビー試合はイギリスの船員たちにより横浜で行われましたが、本格的にラグビーが日本に伝わるまではしばらく時間が必要でした。
1899(明治32)年、菊池大麓と同じくケンブリッジ大学に留学をしていた田中銀之助が、帰国後に日本で英語教師をしていたエドワード・B・クラークという人物と共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールを伝え指導したとされています。
これが公式にラグビーが日本に伝わったはじまりだといわれています。