観測の影響はブラックホールから脱出できるのか?
なぜ観測者「ボブおじさん」はブラックホールの中に入る必要があったのか?
その答えはやはり、パラドックスを起こさせるためでした。
ブラックホールには「ここを超えたらどんなものも戻れない」という事象の地平面が存在しています。
またこれまでの研究によって、この「どんなもの」の中には情報も含まれていることがわかっています。
そのため1つの量子に2つの穴を通らせる実験をブラックホールの中にいる「ボブおじさん」が観測した場合、ボブおじさんが観測したという情報もブラックホールから抜け出ることができません。
そして観測した情報がブラックホールの中に閉じ込められていれば、実験に対して影響力を与えることはできません。
一方で量子力学のルールでは観測したという事実さえ存在すれば、量子の重ね合わせを破壊する効果を発揮し実験システムに影響を与えることができるはずです。
そうなると「観測したのに重ね合わせを破壊できない」というパラドックスが発生します。
このパラドックスを解消するために研究者たちは再び計算を行いました。
すると理論的には、ブラックホール外縁の事象の地平面そのものに、重ね合わせを破壊する能力があることが判明します。
つまり、ブラックホール内部の観測者「ボブおじさん」はもともと必要がないため、最初からパラドックスは存在していませんでした。

しかしそうなると気になるのが、いかなる仕組みで「事象の地平面」が(もう戻れない)ボブおじさんの代りに観測を代行していたかです。
(※アインシュタインの一般相対性理論によれば、ブラックホールに落ちていく人の目には、事象の地平線を超えるときにも、周囲の環境が突然変化したようにみえないと予測されています。一方近年では、ホーキング放射が起こる原理から、事象の地平線では物体が燃え尽きるような状態を起こす灼熱の壁「ファイアーウォール」が存在するとする説も提唱されています)
そこで研究者たちは2016年に発表された、今は亡き故スティーブン・ホーキング博士が残した論文に着目しました。
宇宙はブラックホールの目で自分自身の内部を観察している

2016年にスティーブン・ホーキング博士らが発表した論文では、ブラックホールに落ちてしまった「情報」について述べられています。
物理法則ではエネルギー保存則のように、情報も保存されると考えられており、たとえブラックホールに落ちてしまった情報も失われないとされています。
しかしホーキング博士自身が過去に提唱した理論により、ブラックホールは時間経過とともにエネルギーを失って消滅してしまうことがわかっています。
そうなればブラックホール内部の情報も失われてしまうことになり、情報が保存されるとする物理法則に反します。
そこでホーキング博士らは2016年に、物体はブラックホールに落ちてしまう前に、ブラックホールの淵である「事象の地平面」に情報を渡しているとする論文を発表しました。
この論文では事象の地平面にはソフト粒子と呼ばれる仮想粒子が存在しているとされており、ブラックホールに落ちようとしている物質は、このソフト粒子に情報の痕跡すはずだと主張されています。
また事象の地平面に存在する情報記録の仕組みは「ソフトヘア」あるいは「ブラックホールの毛」と呼ばれました。
今回の研究では、この事象の地平面の情報記録システム「ソフトヘア」の概念を流用して計算が行われました。

すると「ソフトヘア」はブラックホールに落ちる物体だけでなく、ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しており「観測」が成立していたことが示されました。
重ね合わせ状態にある量子をソフトヘアが観察したことで、重ね合わせが破壊され、量子の場所が1カ所に決定されていたのです。
しかしブラックホールが発する重力の影響は無限大であり、音や電波のように伝達を遮断することもできません。
そのため研究者たちは「最終的に宇宙に存在する全ての重ね合わせが完全に破壊されることになる」と述べています。
また同様の観測は事象の地平面だけでなく、情報が一方にしか伝わらない環境ならばどこでも存在する可能性があるとのこと。
たとえば膨張する宇宙の淵や光速に近い速度で動いている観測者の背後(リンドラーの地平線)などが相当するようです。
そのため研究者たちは「これらの淵は、常に宇宙内部を観測している」と述べました。
ただこの印象に対してはさまざまな意見があるようです。
たとえばヴァンダービルド大学の理論物理学者アレックス・ルプサスカ氏は「宇宙がブラックホールを目のように使用して、常に自分自身の内部を観測している」とする表現はやや言い過ぎだと述べています。
一方、ローレンス・バークレー国立研究所の理論物理学者ダニエル・カーニー氏は「詩的に言えば、そのように考えることもできる」と肯定的な意見を述べました。
どちらの意見が正しいかは、現在のところ不明です。
しかしブラックホールの周りで量子実験を行うという魅力的な舞台設定からは今後も、多くの思考実験が行われることになるでしょう。
もし小さな世界を描く量子力学と大きな物体の動きを支配する重力が1つの方程式にまとめられるようになれば、万物の法則に大きく迫ることにもなるはずです。
参考文献
Extreme Horizons in Space Could Lure Quantum States Into Reality
Black Holes Will Eventually Destroy All Quantum States, Researchers Argue
元論文
Killing Horizons Decohere Quantum Superpositions