そういうものだし、YouTubeで動画をあげている人たちも、それを理解した上で活動を行っている。またYouTubeは配信者が世界中で増えてきており、広告費の分配方式のハードルが上がった。YouTubeの配信者が増えても広告費や視聴者が極端に増えるわけではないので、結果、限られたパイをより大勢で分配しなければならず、また、これまで動画配信市場でほぼ独占状態だったYouTube以外に、他の動画配信サイトが誕生し、視聴者もそれぞれに分散されるようになった。
これは一例で、これを定義立てるつもりはもちろんないが、少なくとも一つの社会現象として見ると、確かにニッチな細分化された、よりプロフェッショナル(お金を稼ぐとは違う意味で)が認められる社会に変化しつつあるなと実感する。
自分のやることがお金に変わることをプロフェッショナルと言う「だけ」でなく、好きが昂じて注力するあまり、他人から憧れられたり、真似をされたり、垂涎の目で見られるのも一つのプロの要件とすれば、そう言う人が動画サイトに限らずSNS上で多数見られるようになった。
社会における持続可能性とは、何かを考えると、社会を構成する「個」が発信したり作るものが連鎖して社会全体に小さい大きいは無関係に影響を与え「続ける」とも言えないだろうか?
その意味で、個人の情報発信が可能になった現在は、それぞれの特性とか得意分野が影響しあいシンパシーを与え合い、「個」が「個」のままではない安心感とか安堵感を与え、居場所に気づかせてくれる社会とも言えよう。
自分は何者でもないと言う無力感と同時に、ささやかでも自分を光らせることが出来る世界観を他者と共有する感覚が、自己の居場所、自己の肯定感、自己の存在意義に帰結する。
自己を自己のままいさせてくれる社会が、持続可能性のある社会だとすれば、別言すれば多様性とも言えないだろうか?
もちろん、それらはインターネットが誕生する以前からあったし、時代の変化の中で常時「個」は影響を与え続けてきたが、その中で極小と極大の狭間を埋めているのが、情報を双方向で発信と受信がより容易になった今ではないかと思うのだ。
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以降、
「世界に一つだけの花」と「2位じゃダメなんですか?」問題
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。
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