日本人はなぜ、英語が出来ないのか?

日経の金曜日夕刊に「英語教育『跳躍の年』遠く 中学入試 採用伸び悩み」とあります。英語教育を一生懸命やろうと教育界は頑張っているのにその成果は見えず、アジアにおける英語能力ランキングでは屈辱的な14位です。つまり英語教育についてはその指導法やプログラムはほぼ全て失敗だったと断言してよいのです。私だって学校時代の英語の成績はトップクラスでしたが、海外に出て辱めを受けたのです。全然できない、きこえない、しゃべれない、だったのです。

ではどうやったら伸びたか、と言えば現地の人の英語表現を真似る練習をしたのです。かつてカナダ英語の語尾を最後キュッと上げる癖がついた時期があってそれを聞いたアメリカ人に爆笑されて直したこともあります。ネットニュースもアメリカ風英語、カナダ風英語、両方普通に読みますが、そこで表現の仕方を体得し、メールに書く英語もひたすら現地化させて「英語の下手な日本人」ではなく「カナダの会社の社長さん」というステータスを追い求めたのです。

日本の英語教育は文法ですが、それは単に記憶にとどめる教育です。数学のサイン コサイン タンジェントと同じで将来全く使うことがないから忘却の彼方になるのです。一方、当地では自己主張や表現をしないと極端な話、生きていけないのです。そのツールが英語なのだ、ということです。とすれば英語は学ぶのではなく、使うものなのです。だから英語の料理教室とか英語の業務や大学のクラスなどで英語を自分に押し込まない限り絶対にうまくなることはありません。保証します。

後記 日本の取引先銀行の支店長から転勤出向の連絡が来ました。ほぼ3年に一度の「今生の別れ」です。銀行員とはコンプライアンス上、業務以外の付き合いはまずなく、大変世話になっても転勤となれば二度とお会いすることはありません。3年間培ってきた人間関係はまたゼロから作り直しです。役所もそうですが、これ、転勤する人、させる人はいいのですが、それを送り続ける身になると時間をかけた関係づくりが完全否定されているようで残念に思うこともしばしばですね。

では今日はこのぐらいで。

編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年1月14日の記事より転載させていただきました。