さて、梅原氏に代表されるような縄文=基層(深層)文化論に対しては考古学者などから様々な批判が行われ、アカデミズムの世界では「俗流文化論」と位置付けられている(坂野徹『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』中公新書、2022年)。ただし、本稿ではその問題には立ち入らず、梅原氏が縄文文化とアイヌ文化を結びつける着想をどこから得たのか、少し考えてみたい。

考古学者の山田康弘氏が指摘するように、戦前の歴史教育においては、石器時代の東日本には「日本人種」ではなく「蝦夷人種」(アイヌ)が住んでいた、と教えられた(「梅原と縄文、そしてアイヌ」『ユリイカ』2019年4月臨時増刊号、青土社)。

1925年生まれの梅原氏が、戦前の教育の影響を強く受けていたであろうことは想像に難くない。だが梅原氏は、アイヌと古代日本人という「二つの民族はひとつの元から生じているのではないか。その言語も、その文化も、同じ起源をもつのではないか」と考えており(『日本の深層』)、この点では戦前のアイヌ蔑視的な歴史観と一線を画している。

もう一つ可能性として想定できるのは、岡本太郎の影響だろう。縄文土器の美をいち早く発見し、その魅力を啓蒙普及したのが芸術家の岡本太郎であったことは良く知られている(「四次元との対話-縄文土器論」『みずゑ』1952年2月号)。梅原氏も著作で岡本太郎の功績に言及しており、縄文文化について対談を行ったこともある(梅原猛・岡本太郎・小松左京「忘れられた縄文の文化」、1974年)。

だが岡本太郎は、縄文土器や土偶の芸術性を評価するに留まらず、縄文文化とアイヌ文化の親和性についても語っている。太郎は1957年に岩手を旅した際、特に2つのものに感銘を受けた。1つは、中尊寺の讃衡蔵で見つけた鹿角の護り刀の飾りであり、もう1つは、花巻で見た鹿踊りである。

前者について太郎は次のように評する。「激しいエゾ紋様だ。アイヌ的であり、またまさに縄文文化の気配でもある」。後者についても、「鹿踊りについては、私ははじめから、かつての縄文文化人が鹿の肉を常食にしていた時代の呪術的儀礼からの伝統だとにらんでいた。ちょうどアイヌの熊祭りと同じように」と語っている(『日本再発見 芸術風土記』新潮社、1958年)。

ただし「民族独自の明朗で逞しい美観、民衆のエネルギー」に注目した岡本太郎と異なり、梅原氏は縄文文化・アイヌ文化を近代批判に用いている。そこには1970年代という時代性が刻印されている。

それはさておき、「蝦夷の子孫であることが、蝦夷の後裔であることが、なぜわるいのであろう。アイヌと同血であり、同文化であるということを、なぜ恥としなくてはならないのか」(『日本の深層』)という梅原氏の訴えは、当時としては先進的な考えだったと言える。

しかしながら、現在では、アイヌは「日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族」と定義されている(内閣官房アイヌ総合政策室)。アイヌ文化を縄文文化と結びつけ、日本文化の基盤とみなすことは、ことによると「文化盗用」と批判されかねない。この点でも梅原説、そして同説を起点とする昨今の「縄文ブーム」を相対化していく姿勢が求められよう。

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