分裂は395年以前から始まっていた

英スウォンジー大学(Swansea University)の歴史学者、マーク・ハンフリーズ(Mark Humphries)氏は「395年の最終的な分裂以前に、帝国内ではすでに分裂が始まっていた」と話します。

ハンフリーズ氏は、こう続けます。

「私たちはしばしば、ある特定の時点で、急に分裂が起こったと考えがちです。

現在、最も認知されている一般的な日付が、西暦395年の東西分裂でしょう。

ここでは、ローマ皇帝のテオドシウス1世がその死に際し、息子のアルカディウス(当時18歳)を東ローマ皇帝に、その弟のホノリウス(当時16歳)を西ローマ皇帝に指名しました。

しかし実は、その1世紀以上前から、帝国内で分割統治は行われていたのです」

四分統治を行ったディオクレティアヌス
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たとえば、西暦284年に即位したディオクレティアヌスは、帝国の安定化を図るべく、293年に独自の分割統治を考案しました。

彼は、2人の上級皇帝と2人の下級支配者で帝国を4つに分割する「テトラルキア(四分統治)」を実施します。

テトラルキアは、305年のディオクレティアヌスの退位後に崩壊し、有力者同士の争いの結果、324年にコンスタンティヌス1世がローマ帝国を再統一しました。

ところが、コンスタンティヌス1世の死後、帝国は再び分裂し、彼の3人の息子によって分割統治されます。

このようにローマ帝国は、395年の完全な東西分裂の以前に、長らく分割統治を続けてきたのです。

ただ「395年以前は、帝国の”統一性”が過度に強調されたため、ローマ帝国の正式な分裂と見なされなかったのでしょう」と、ハンフリーズ氏は指摘します。

東西の関係はどのようなものだったか?

東西の分裂後は緊張関係が増すばかりだった
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395年の正式な帝国分裂に際し、東と西は当初、互いに協力的な関係を築くはずでした。

実際、東西の皇帝は、互いの名前を使って自国の通貨を発行しましたし、西側が直面していた異民族による襲撃には、東側が軍事援助を行っていました。

しかし、国を明確に2つに分けた状態で、良好な関係を維持することは難しく、徐々に緊張と不和が生じ始めます。

たとえば、東と西は、それぞれの側で指名された領事を認めないことが多々あったそうです。

結局、東西の溝は深まるばかりで、協力関係も修復されぬまま、西暦476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが西側で反乱を起こし、当時の皇帝ロムルスを倒したことで、西ローマ帝国は完全に崩壊しました。

一方の東ローマ帝国は、その後もビザンツ帝国の名で約1000年ほど存続しましたが、1453年にオスマン帝国の攻撃で首都が陥落し、滅亡。

これが偉大なローマ帝国の最期となりました。

参考文献

Why did the Roman Empire split in two?