私たち人間の体は、深海の強烈な圧力に耐えることができません。

水中の圧力は、10メートル深くなるごとに1気圧ずつ増加するので、水深100メートルなら、およそ10気圧の圧力がかかります。

スキューバダイビングが、だいたい2〜6気圧の範囲で行われますから、常人が生身の状態で100メートルも潜れば、脳や肺は多大なダメージを受けるでしょう。

一方で、同じ哺乳類の仲間であるクジラは、何の装備もなしに、軽々と水深1000メートル以上を潜ることができます。

そんなところに私たちが行けば、脳や肺は簡単にプチッと潰れてしまうでしょうが、クジラはそうはなりません。

なぜクジラは深海に潜っても平気なのでしょうか?

今回、カナダ・ブリティッシュコロンビア大学(UBC)が新たに調査した結果、その秘密は「奇網(retia mirabilia)」と称される血管網にあったようです。

研究の詳細は、2022年9月22日付で科学雑誌『Science』に掲載されています。

圧力を分散するための「セーフティネット」を持っていた?

水中生活においてクジラの障壁となるのは、水深が増すにつれて増大する「外部圧力」だけではありません。

クジラは潜水する際に、大きな尾ビレを上下に動かすフルーキング(fluking)を行いますが、これが心血管系に多大な「内部圧力」を与えるのです。

フルーキングをするたびに内圧が高まり、尾ビレから腹部、胸部、そして血流に圧力波が生じます。

この圧力波が脳に到達すれば、繊細な毛細血管は粉々に破壊されてしまうはずです。

陸上で暮らす動物であれば、内部圧力は単に外に吐き出せば済むのですが、クジラの場合、水中では息を止めていますし、外部圧力もかかるのでそうはいきません。

こうした内と外からの圧力にクジラがどう対処しているかは、専門家にとって長年の疑問となっていました。

1枚目の画像
Credit: canva

そこで研究チームは今回、ヒゲクジラの一種である「ナガスクジラ(学名:Balaenoptera physalus)」を含む11種類のクジラ類を対象に、解剖学的構造を詳しく調査。

それをもとに、潜水するクジラにかかる圧力および流体力学のコンピュータモデルを作成しました。

その結果、クジラの体内には、圧力の緩衝材となる”セーフティネット”が存在することが示されたのです。

それが「奇網(retia mirabilia)」と呼ばれる、静脈と動脈からなる巨大な血管網です。

奇網はクジラに特有の器官ではなく、魚類や鳥類、哺乳類などの脊椎動物に見られます。

こちらは、ヒツジの体内に存在する奇網。

ヒツジの奇網で、静脈と動脈が複雑に絡み合っている
Credit: ja.wikipedia

調査対象としたクジラ類の奇網は、心臓から全身に血液を送り出す「大動脈」と、脳に血液を供給する「血管系」の間に位置していました。

そして、シミュレーションの結果、この奇網が、クジラの脳にかかる圧力の実に97%をカットしていることが示されたのです。

シミュレーションによると、潜水に伴う外圧やフルーキングにより加圧された血液パルス(圧力波)は、複雑に絡み合う重層的な奇網を通過するときに、血管の大きな表面積で捕らえられ、まとまった力が分割され、さらに脳脊髄液の助けを借りて、拡散されていました。

そのため、血液パルスが奇網を通り越して、脳側の血管系に到達する頃には、圧力の大部分が緩和されていたのです。

クジラは約5000万年前に、一度陸に上がった祖先が再び海中に戻ったことで進化しました。

しかし、劇的な生活環境の変化は、「圧力」という新たな難題をクジラに課すことになります。

その障害を乗り越え、水中で生き延びるために、クジラは「奇網」というセーフティネットを発達させたのでしょう。

「奇網」が脳を圧力から保護していた
Credit: canva

また、研究チームは「哺乳類でこれと似たようなシステムを備えているのは、クジラ類だけではない」と指摘します。

たとえば、長い首を持つキリンは、水を飲んだ後に頭を上げると、脳にかかる圧力が急に変化することで、失神する危険性があります。

しかし、後頭部にある奇網(ワンダーネットとも呼ばれる)が、首の上下による頭部の血圧変動を吸収することで、失神せずに水が飲めると考えられるようです。

参考文献

An Anatomical Quirk Could Explain Why Whale Brains Aren’t Pulverized When They Dive

元論文

Retia mirabilia: Protecting the cetacean brain from locomotion-generated blood pressure pulses