フランシスコ教皇と「ヨブの話」

このコラム欄で何度も登場したが、フランシスコ教皇は「ヨブの話」を引用する。ヨブは家族を失い、財産までなくなり、最後は自身の体すら打たれる。「神の戒めを守っている自分がなぜ…」という思いが湧いてくるが、ヨブは神への信頼を最後まで守り、神の祝福を再び得る。

「ヨブの話」は、神への「信仰の勝利」を記したハッピーエンドの物語というより、「人生の不幸、困窮は神からの罰ではない」という点が大切なのだろう。不幸が生じれば、直ぐに「あいつのせいだ、国のせいだ」とする。

キリスト者ならば「神の刑罰だ」と捉えるかもしれない。最悪の場合、「全ては自分のせいだ」と考え、自己嫌悪から絶望に陥る人も出てくる。成功したり、栄光に包まれると、人は傲慢に陥りやすいが、厳しい困窮に直面すると、突然、自信を失い、自分を責めだす。

人々が不幸や困窮に直面した時、人は神に不満や苦情を訴える権利はあるが、それらの不幸が神からの罰と受け取ってはならないという。フランシスコ教皇の主張は「愛の神」を擁護するための説明のように響く。実際に困窮下にある人に向かって、「神を信頼して忍耐せよ」というメッセージはある意味で非常に酷だ(「『神』はなぜ世界を救えないのか」2022年5月2日参考)。

全ての事例、現象には「意味」がある

全ての事例、現象には「意味」があるはずだ。不幸にも、幸福にも「意味」がある。21世紀のグローバルな時代に生きている私たちの前に新型コロナウイルスの感染が拡大し、ロシアとウクライナ間で戦争が生じている。世界中の人々が同じ困難、試練に直面している。

人類歴史ではこれまで体験しなかった状況だ。そこになんらかの「意味」があると受け取って、冷静に対応していくならば、必ず解決策が出てくるのではないか。個人レベルから国家、世界レベルの諸問題まで、全ての事例、現象には必ず何らかの「意味」が隠されているからだ。

少し説明する。神が自身の似姿で人を創造され、全ては神のロゴスから成り立っているとすれば、人間はそのロゴスが具体的に展開された存在だ。だから、そのロゴスを読み取ることで、事例、現象に含まれた「意味」が浮かび上がってくる。

「意味」が発見されれば、「価値」が生まれてくる。「意味」なく、「価値」もない人生は生きていけない。人が困難でも生きていこうとするのは、そこに「意味」があり、「価値」を感じるからではないか。

オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクル(1905年~1997年)はナチス強制収容所に拘留されていた時もそこに何らかの「意味」があると考え、困難な時を乗り越えていったという。フランクルの著書には代表作「夜と霧」のほか、「それでも人生にイエスと言う」がある。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年5月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

文・長谷川 良/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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