英国女王エリザベス二世が9月8日、国に捧げ続けたその生涯を終えた。96歳だった。奇しくも71年前のその日、日本と連合国は、米カリフォルニア州サンフランシスコ市のウォーメモリアルオペラハウスで先の大戦に係る平和条約、いわゆる「サンフランシスコ平和条約」(以下「サ条約」)に署名した。
翌52年4月28日に発効したこの条約によって、敗戦国日本は、SCAPマッカーサーによる約2000日に及ぶ占領から脱し、晴れて独立国として国際社会に復帰した。本稿では、偉大な女王のご逝去を機に、英国がサ条約にどのように関わったかを駆け足で見てゆく。
その前に筆者が女王と遭遇した話。サ条約署名2ヵ月前に生まれた筆者が社会人になった1975年、配属された某営業部での初外勤は平和島にある営業倉庫での棚卸、確か連休明けだった。浜松町から乗ったモノレールが、初来日した女王を乗せて羽田から都心に向かう車列とすれ違った記憶は、47年経った今も鮮明だ。
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戦後初めて国葬された吉田茂元総理のサ条約締結の治績に、暗殺された安倍元総理の国葬儀が27日に執り行われるこの際、改めて光を当てるべきであろう。安倍国葬にも様々な立場から賛否両論あるが、サ条約でも国内外で議論が二分された結果、永世中立が可能となる「全面講和」を待たず、48ヵ国との「多数講和(単独講和)」で、西側の一員として国際社会に復帰した注1)。
このため「ソ連や東欧諸国、中華人民共和国、さらに、いくつかのアジア諸国との国交回復は遅れ」注2)、署名国のうち「日本と戦った連合国の主要国」は「アメリカとイギリスの二ヵ国にとどまった」注3)。ロシアとは未だ平和条約がない。
背景には東西冷戦がある。50年6月に北朝鮮が南進して勃発した朝鮮戦争では、それが「熱戦」として現れた。斯くて「中華人民共和国の参加は米国が阻止」し、「ソ連とその衛星国のチェコスロバキア、ポーランドは会議には参加」したが、「署名は拒否した」のだった注4)。
会議を「ボイコットしたインドとビルマは、後に個別に平和条約を結んだ」が、「フィリピン、ニュージーランド、オーストラリアは日本への恐怖を拭えず」、ダレスが提案した「共産主義による攻撃の場合だけでなく、日本からの攻撃が発生した場合も米国が支援する」という安全保障上の保証によって、漸く署名に合意した注5)。
コモンウエルス(英連邦)を構成するオーストラリア、ニュージーランドそしてインドは、今や安倍が提唱した「自由で開かれたインド太平洋」構想に基づく「海洋秩序に関する政策発信や、海洋法の知見の国際社会との共有」、「自由で公正な経済圏を広げるためのルール作り」、「インド洋と太平洋にまたがる連結性の実現」、「能力構築支援を通じたガバナンスの強化」、「海洋安全保障及び海上安全の確保」(外務省)に、日本と共に取り組む。
前掲書で「サンフランシスコ講和とイギリス外交」の項を書いた細谷雄一は、「連合国の中で最も日本の軍事的脅威の復活を懸念し、最も強硬な“ハード・ピース(峻厳な講和)”を求めていたオーストラリアとの間で、英連邦としての枠組みを用いて調整を進めること」が、結束して事に当たりたい英国が「対日講和を実現する」上での「困難な問題」の一つだったとする。
他の「困難な問題」とは、マッカーサーが47年3月の会見で「1年以内に早期対日講和交渉を開始することが望ましい」と述べたのに対し、米軍部には「占領下の日本で自由に米軍が基地を利用できる権利を失いたくない」として、早期講和よりも「対日占領の継続を求める声が強」いこと。ソ連の「封じ込め」戦略に転換しつつあった米国務省もこれに同調していた。
結果的に見れば、マッカーサーの主張する早期講和は、朝鮮戦争での日本の役割の景色を一変させてしまい、赤化した朝鮮半島と「朝鮮特需」のない低迷する日本を残したかも知れぬ。このマッカーサーの主張の裏には、48年11月の大統領選への出馬する意向があった注6)。
こうしたサ条約に対する米国との立場の違いを、英連邦の盟主を自認する英国は「そこで主導権を取れると考えた」注7)。こうして英国はロンドンでの英連邦会議開催を提案、オーストラリアがキャンベラでの開催を主張するやそれを受け入れ、カナダ、ビルマ、南ア、パキスタンを加えた8カ国で47年8月末に開催した。
英国が早期講和を志向した理由は、「日本は占領に反対しているのであるから、日本が今後どのような見通しにあるかということを明確にしなければ、彼らが共産主義に向かう危険性があるかも知れない」との、49年9月の英外務省極東担当次官補エズラ―・デニングのメモに見ることができる注8)。
ソ連への脅威認識の高まりは、英国が発想した「英連邦の結束」と「西側諸国間の協調」を強化する「第三勢力」構想と、それを軍事的に支える「北大西洋条約」の締結(49年4月のNATO発足)によって結実し、英米関係の枠組みの中での多数講和による早期講和へと向かう。無論、49年10月の中華人民共和国成立もその一因になった。
早期かつ「ソフト」な対日講和に伴う日本における米軍の軍事的懸念は、サ条約と同時に署名・発効した「日米安保条約」(同時に発効した「行政協定」の署名は52年2月28日)で補われることとなった。西側諸国における「北大西洋条約機構(NATO)」に倣った発想といえよう。
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こうして「公正にして史上かつて見ざる」「和解」と「信頼」の文書と吉田が述べた注9)サ条約および日米安保条約の「意味する対西欧協力政策注10)」によって、日本は独立と国際社会への復帰を果たした。その裏には、米国を早期の「ソフト・ピース」に導いた、厳とした反共の英国の動きがあった。
独立といえば、日本の独立維持のため大国清に挑んで勝ち取った下関条約の第一条が「朝鮮の独立」だったことは、台湾譲受ほど知られていない。立役者の伊藤博文が09年、安重根に暗殺され国葬された翌年、日本は韓国を併合した。その間の北清事変(00年)を縁に日英同盟が結ばれ、その後ろ盾で日本は大国ロシアとの戦争にも勝った。
安保条約に戻れば、57年に総理に就任した岸信介が60年6月にその片務性を正し、辞任を表明した直後に暴漢に襲われて重傷を負った。日本を真の独立国に近づける「平和安全法制」を15年9月末に成立させた岸の孫・安倍晋三は、この7月にテロの凶弾に倒れ、9月27日にその国葬儀が行われる。
吉田や岸らの反共を念頭に置いた外交によって、焦土から立ち上がった日本は、今や国際社会の中で確固たる地位を築いた。それはまた、憲政史上最長の総理在任日数(連続2822日、通算3188日)の安倍による、インド太平洋構想やクアッドを始めとする「地球儀を俯瞰する外交」抜きにはあり得ない。伊藤を始め、吉田や岸、そして安倍の生涯は、英国女王と同様に祖国に捧げられたと筆者は思う。
安倍元総理の国葬儀には、かつて日本を酷く恐怖したオーストラリアからアルバニージー首相の他、ターンブル、ハワード、アボットの元首相3名も参列する。つくづく歴史の転変と国家が独立してあることの重さを感じる。過去に拘る北や西の隣国や些事に拘る国内左派の様では、国家も人も進歩や発展は望めまいに。
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注1)『宰相 吉田茂』高坂正堯 注2)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中の波多野澄雄 注3)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中のマイケル・シャラ― 注4)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中のマイケル・シャラ― 注5)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中のマイケル・シャラ― 注6)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中のマイケル・シャラ― 注7)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中の細谷雄一 注8)『サンフランシスコ講和と東アジア』共著者10名中の細谷雄一 注9)『吉田茂と昭和史』井上寿一 注10)『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』西村熊雄