みなさんこんにちは。歴旅ライターまえてぃーです。今回は兵庫県赤穂市にある『赤穂大石神社(あこうおおいしじんじゃ)』をご紹介します。実はここ、あの赤穂浪士にゆかりがあるとってもパワーをもらえる神社なんです。赤穂浪士たちが歩んだ歴史と共に、ぜひ赤穂大石神社について知ってもらえたら嬉しいです。

目次
赤穂大石神社とは
忠臣蔵の歴史

赤穂大石神社とは

赤穂大石神社でパワーチャージ!!忠臣蔵ゆかりの地であなただけの赤穂浪士と出会おう!!
(画像=『たびこふれ』より引用)

赤穂大石神社は、1912年に創建された神社です。ドラマでも有名な『忠臣蔵』ゆかりの神社で、主君の敵を倒した義士たちにあやかり「大願成就」のご利益があると言われています。

ご祭神は、大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神としています。

忠臣蔵の歴史

ここで簡単に忠臣蔵(赤穂浪士)のストーリーをご紹介します。

時は江戸時代、播磨赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、幕府より天皇が出す使者「勅使(ちょくし)」が江戸に来ることで、その接待役として選ばれます。そこにはさまざまなしきたりがあるので、そのアドバイス役として選ばれたのが、吉良上野介(きらこうずけのすけ)でした。

しかし、吉良から教えられる内容に実際のしきたりとは違うことがあり、二人の間には摩擦が生じていました。吉良が行ったことが、わざとウソを教えたのか、単純に知らなかったのかは不明ですが、浅野内匠頭としては憎しみを抱くには十分な出来事でした。

そして、江戸城内の松之大廊において、浅野内匠頭は脇差で吉良上野介を切りかかり、背中と額に傷を負わせました。浅野内匠頭はその場で取り押さえられ、吉良上野介は軽傷でした。

浅野内匠頭に言い渡された処分は即日切腹。吉良上野介にはなんの処分もありませんでした。その後、赤穂藩の城「赤穂城」は江戸幕府に引き渡すことになり、赤穂藩の武士は職を失うことになりました。これが赤穂の浪人、つまり、赤穂浪士の誕生です。

そこでリーダーになったのが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)です。大石内蔵助は時間をかけ、主君であった浅野内匠頭の無念を晴らすべく吉良家への討ち入りを計画します。意志の弱い浪士は仲間から外し、武器をそろえ、吉良家の地図を入手し、計画の実行は具体化されていきました。

赤穂大石神社でパワーチャージ!!忠臣蔵ゆかりの地であなただけの赤穂浪士と出会おう!!
(画像=『たびこふれ』より引用)

<赤穂浪士のリーダー「大石内蔵助」像>

そして、1702年12月14日、赤穂浪士47人は吉良家への討ち入りを実行し、吉良上野介を討ち取りました。討ち入り成功後、主君の墓がある場所まで全員で行進したそうです。

この事件において、幕府から言い渡された処罰は処刑ではなく、「切腹」でした。そして、生き証人となった浪士「寺坂吉右衛門」以外の46人が切腹し、命を落としました。主君の名誉のために、命を賭して戦いを挑み、散った浪士たちの物語は、民衆の心をつかみ、その歴史は後に歌舞伎や映画、ドラマとなり、現代にも受け継がれています。