目次
3. 縄文時代にタイムスリップ!?礼文島と人々の歴史に迫る!
4. 【明治~現代】礼文島開拓の歴史を紐解く!
3. 縄文時代にタイムスリップ!?礼文島と人々の歴史に迫る!
ここからは、礼文島と人類の歴史について迫っていきます。
と、その前に、みなさんは、北海道の歴史についてどのくらいご存じですか?
実は、北海道の歴史は、本州のような、縄文時代・・・古墳時代・・・鎌倉時代・・のような流れではないんです。
本州と北海道、そして礼文島の歴史について、簡単にまとめてみました。

本州では「稲作」をきかっけに、縄文時代から弥生時代に移り変わりました。ところが北海道では、気候条件からか、稲作を行わない生活が続いていたんです。これが続縄文時代と呼ばれ、北海道と本州の歴史の分岐点になっているんです。
北海道ではその後、「擦文(さつもん)時代」を経て、「アイヌ文化期」へと、独自の文化が発展していきました。
ちなみに擦文とは、土器の表面にみられる模様が、文様のようにみえることから名づけられました。
アイヌ文化期とは、本州では鎌倉時代を迎えていたころ、多くの和人(アイヌ民族以外の人々)が北海道南部より進出し、彼らとの交流が盛んになることで生まれた文化です。これは明治に入るまで、約700年続いたそうです。
・・・ははぁ。なるほどなぁ。
みなさんこれ、凄くないですか?
誰もが中学生のころ、戦国時代とか、室町時代とか、年号とか勉強したと思うんですよ。その時代に、同じ日本なのに、これだけ違う文化があったんですって!
じゃあ、日本最北の離島、礼文島では?
人々はどのような暮らしをしていたのでしょうか?
ここからは、その謎を紐解いていきたいと思います。
礼文島では今のところ、55の遺跡が見つかっていて、それらの遺跡からは、約4000年前の縄文時代から現代にかけて、継続的に人々が生活してきた痕跡が見つかっています。




2019年には、礼文島船泊遺跡で見つかった縄文人の人骨から、ゲノム(全遺伝子情報)を高精度に解析することに成功したと、国立科学博物館の研究チームにより発表されました。礼文島で発見される骨や貝の化石は他の地域に比べると保存状態が良く、それが今回の解析につながったそうです。

礼文島ではニシンやホッケなどの豊富な海産物に加え、アザラシやトドなどといった海獣が多く生息しているため、彼らはそれを主な食料としていたようです。
遺跡から見つかったアザラシの骨。他にも、貝やニシンなど、当時の人々が食べていたと思われる、多くの出土品がとてもよい保存状態で見つかっています。
さらに礼文島を含む北海道北部のエリアでは、続縄文時代の終わりから擦文時代にかけて、オホーツク文化と呼ばれる独自の文化が営まれていました。この文化は、サハリン(樺太)から北海道に南下してきた文化です。

オホーツク文化期に作られた土器の展示。
4. 【明治~現代】礼文島開拓の歴史を紐解く!
礼文島の開拓がはじまったのは、明治時代と言われています。
明治政府が新たな国作りを進めていく中で、礼文島への移住者が増え、徐々に現在の社会基盤が作られていきました。特に、青森県津軽半島からの移住者が多かったそうです。
中でも、礼文島の発展の基礎となったのはニシン漁です。もともと江戸時代から行われていたニシン漁は、明治に入ると漁法の発展により漁獲量が増加。明治から大正にかけて最盛期を迎えました。昭和に入ると衰退してしまいましたが、礼文島の経済に大きな影響を与えました。
・・・歴史の教科書みたいな説明文になりましたが、つまりそういうことです。
明治というと、近代化が進み、現在の日本という国が形作られてきた時期ですよね。時代の変化に合わせて、礼文島の開拓も進んできたことがわかります。

礼文町郷土資料館では、当時のニシン漁で使われていた道具が展示されています。

ちなみにニシン漁には大勢の人手が必要だったため、その人たちを泊まらせるために、ニシン番屋と呼ばれる建物が建てられました。
写真は礼文島にあるニシン番屋を改築した、桃岩荘というユースホステルです。
そして、今から約64年前の1956年(昭和31年)、当時の船泊村と香深村が合併し、礼文村となり、さらにその3年後の1959年(昭和34年)に、現在の礼文町となりました。
礼文町郷土資料館の後半のエリアでは、礼文島開拓期~現在に至るまでの記録が残されていました。

徐々に近代化していく様子や

当時の島の様子を写真や資料で紹介しています。


昭和30年代の礼文島の地図!
このほかにも、
礼文島の無形民俗文化財にも指定されている四か散米舞(しかさごまい)や、有形民俗文化財の厳島神社絵馬など、現代に残る礼文島の文化についても、詳しく紹介されています。興味のある方は是非お越しになってください。

毎年礼文島の厳島神社祭で行われる四か散米行列。