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量子の発見
波? 粒子? 浮上した2重性の問題

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=Credit:pixabay、『ナゾロジー』より引用)

「観測するまで物事の状態は決定されない」「全ては確率」

そんな中二心をくすぐるワードでいっぱいの量子力学ですが、私たちに見える世界はそんな曖昧なものではなく、もっと盤石で決定論的なものに見えます。

アルベルト・アインシュタイン博士は量子力学を生み出した功労者の1人ですが、最後までこの曖昧な量子力学の考え方を受け入れることはできませんでした。

量子力学の発展に大きな貢献をしたエルヴィン・シュレーディンガー博士も、同じく量子力学の主張する確率解釈を受け入れることはできませんでした。

シュレーディンガーに至っては「私の波動方程式がこんな風に使われるのなら、論文などにしなければよかった」と嘆いたほどです。

しかし、量子力学はその不可思議な主張を柱にしながら、大成功を収めた理論であり、現代ではほぼ完全に受け入れられてしまっています。

SFネタとしては興味深いですが、現実の話としてはずいぶんと突飛で難解な量子力学。

これらは一体どのようにして発見され、今に至ったのでしょうか?

ただ解説されるだけでは難しすぎる量子力学の世界を、ここでは歴史の観点から追ってみましょう。

量子の発見

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=「結局わたしのやったことは窮余の策だった」マックス・プランクの肖像。/Credit:Wikipedia Commons、『ナゾロジー』より引用)

量子力学の歴史はマックス・プランクの黒体放射の研究から始まります。これは光のエネルギーと色の関係を調べる研究でした。

ガスバーナーやコンロの炎は赤色より青色の方が温度が高く、夜空の星々も赤より青く輝く方が高温の星です。

熱した物体は光を放ちますが、これは温度によって色が変わります。これは古くから知られている事実でした。

しかし温度と色にどういう関係性が成り立つのか? という問題は長らく謎のままでした。

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=黒体放射の測定グラフ。縦軸はエネルギー量、横軸は波長を表す。温度ごとに波長のピークは決まっていて、それは温度があがる程短くなっていく(上)。黒体放射の温度ごとの色。温度が高いほど青に近づく(下)。この結果を方程式にするために物理学者たちは頭を悩ませた。/Credit:4C,Wikipedia Commons/natural science、『ナゾロジー』より引用)

温度とはすなわち光の持つエネルギー量を意味しており、色は光の波長によって決まります。温度と色が相関関係を持つということは、光は波長(振動数)でエネルギー量が決まっているはずです。

しかし、こうした考えで作られた方程式は、なぜか長波長(赤外領域)に向かうほど実験結果と大きな誤差を生んでしまいました。

なぜ波長が伸びるほど、計算と実験結果はズレてしまうのでしょうか?

波長が短くなると、振動数は増えることになります。実験結果は振動数が大きいほどエネルギー量も大きくなることを示していました。

そこでプランクは、もっとも単純な解決策として、振動数に定数を掛けるというアイデアを採用します。

そして、光が1回振動するときに現れる最小エネルギー量を実験結果から導き出し、定数として方程式に組み込んだのです。

それが「E = hν」という数式です。Eとは光のエネルギー、ν(ギリシャ文字「ニュー」)は光の振動数を表します。そしてhが導入された定数が「プランク定数」です。

プランク定数hは6.626 × 10-34という恐ろしく小さい値で、日常的なスケールではまず気づくことのできないものです。

こうして作られたプランクの式は、ピタリと実験結果と一致しました。

しかし、プランクはこれを単に計算の辻褄を合わせるためにやった窮余の策と考えていました。

なぜなら、プランク定数の意味を考えた場合、それは光が連続した波ではなく、「hν」という飛び飛びの値で変化する粒子ということになってしまうからです。

プランクは光の正体が波ではなく、決まったエネルギー素量を持つ粒子であるとはとても考えられなかったのです。

しかし、この「hν」という塊は、後に量子と呼ばれることになり、物理学の様々な局面で重要な意味を持つようになるのです。

波? 粒子? 浮上した2重性の問題

光の2重性問題は古くからあり、かのアイザック・ニュートンは光を粒子だと考えていました。しかし、同時代の物理学者ホイヘンスは、光がエーテルという媒質を伝わる波であるという主張しました。

この議論は、最終的に光が波であることを示す実験結果が見つかったことで決着します。

有名なヤングの二重スリット実験は、光が波であることを証明するもっとも有力な証拠でした。

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=二重スリット実験。/Credit:pixabay、『ナゾロジー』より引用)

しかし、そんな物理学の常識は、アルベルト・アインシュタインの登場によって打ち砕かれます。

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=「まるで足元から大地が引き抜かれたようで、家を建てるための地盤がどこにもなくなってしまった」アルベルト・アインシュタインの肖像。/Credit:pixabay、『ナゾロジー』より引用)

アインシュタインといえば、相対性理論で有名ですが、最初にノーベル賞を受賞した功績は、光電効果の原理を説明した功績によるものでした。

光電効果とは金属にぶつかった光に弾かれて電子が飛び出す現象です。

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=光電効果。光を金属などに照射すると電子が飛び出す。ア/Credit:Wikipedia Commons、『ナゾロジー』より引用)

光電効果では、振動数の低い光は長時間照射しても、光量(明るさ)をどんなにあげても、電子が飛び出しません。ところが照射する光量がどんなに弱くても、振動数の高い光を当てると電子が飛び出しました。

そして、飛び出す電子の運動量は振動数に比例していて、飛び出す電子の数は光量に比例していたのです。

これは光を波として捉えた場合、うまく説明することができませんでした。

アインシュタインは光が振動数に応じたエネルギーを持つ光量子だと仮定すれば、全てがうまく説明できることに気づきました。この場合、明るくすることは光量子の数を増やすだけということになります。

「電子を追い出すために必要なエネルギーは金属ごとに異なり、飛び出す電子の運動エネルギーは閾値となる光量子の振動数から始まる直線になるはずだ。そして、そのとき描かれるグラフの傾きはプランク定数hになるだろう」それがアインシュタインの考えでした。

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」
(画像=Credit:物理のかぎしっぽ、『ナゾロジー』より引用)

ここでアインシュタインは、光電効果を説明するために、プランクが生み出した量子仮説を利用するのです。そしてそれは見事に現象を説明していました。

しかし発表当時、光を粒子と捉えるこの理論に多くの物理学者は懐疑的でした。プランク自身も、アインシュタインの光量子に関する論文は素直に受け入れることはできなかったといいます。

アインシュタインは、現代においては偉大な物理学者ですが、当時はスイスの特許局に務める公務員のアマチュア科学者でした。彼の論文は高く評価されましたが、この時点では彼の主張を手放しで信用する人はいなかったのです。

ノーベル賞も、光電効果を説明する方程式の発見を評価したもので、光量子という概念の導入についてはスルーしました。

アメリカの実験物理学者ロバート・ミリカンもその1人で、アインシュタインの間違いを証明してやろうと、10年近くもかけて光電効果の詳細な実験を行いました。

しかしその実験で得られた結果は、全てアインシュタインが正しいことを示すものだったのです。

ミリカンは、この功績により思惑とは反対にアインシュタインの光電効果理論を実験で証明した人として、ノーベル物理学賞を受賞してしまいます。

しかし、その受賞の場でさえも、ミリカンは光が粒子であるとは考えられないと語ったそうです。

結局光は波なのか粒子なのか? どちらについても有力な証拠が出てきてしまい、当時の物理学者たちは大いに混乱しました。