投資に限らず、人が自主的に何かを学ぼうとするなら、学ぶ必要があるか、学ぶこと自体が楽しいか、そのどちらかである。では、必要性と楽しさ、どちらが大事かといえば、必要なことでも楽しくないなら学習を継続できず、必要でないことでも楽しければ学習は深く進むかもしれない。やはり、必要性の認識と楽しさとの間には、ある種の均衡がなければならない、食事に喩えるならば、生存と健康を支える栄養価と、おいしさとの間にあるべき均衡が。
食事は、生物としての人間の必需性からみれば、一定の栄養価の摂取であって、食品の物理的な組成と、数量的に計測される構成要素の量が問題である限りにおいて、甚だ味気ないものである。しかし、同時に、食事は、楽しみであり、文化的な行為であって、物質としての食品の構成要素の量では測れない味が重要なのである。要は、おいしくないと、食べられないということである。
投資、あるいは資産形成は、お金の問題である。お金ほど、味がなく、量だけが問題となるものもない。お金は全てを同一の基準で測定する最も抽象的なものだからである。ちょうど、全ての食品をカロリーで一元的に測定するようなものである。しかし、資産形成において、お金の量だけが問題なのか、そこに味はあり得ないのか。
病院や学校の給食では、カロリーなり栄養価なりの量的な制御がなされていることが必須の要件であって、そこには、栄養学という科学がある。しかし、同時に、味を問題にしていないわけではない。むしろ、一定以上のおいしさを条件として、必要な栄養の組み合わせを実現するところに、科学を超えた技術があるはずである。
資産形成は、おいしさを備えた栄養学ではないのか。味への配慮を条件として、科学的な栄養の組み合わせを実現する栄養士の技術的側面にこそ、国民が資産形成を学ぶについて、検討されるべき論点が潜むのではないか。それに対して、従来、投資教育という名のもとに行われてきたことは、どちらかといえば、おいしさを欠いた味気ない栄養学の普及のようなものではないのか。
さて、では、投資の味とは何か。一つには、ゲームとしての楽しさであるが、投資を資産形成として位置付けたとき、その味として不適当である。資産形成の味は、形成された資産を取り崩すところにあるのではないか。例えば、資産形成の目的が豊かな老後生活にあるのなら、その生活の豊かさが味ではないのか。
文・森本紀行/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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