「いつ」になったら両者に和解、連帯を呼びかければいいのか

ロシア人とウクライナ人のカップルは多い。モスクワ居住のウクライナ女性は、「夫はロシア人だ。夫と共にウクライナ戦争が早期に終わることを祈っている」と言っていた。「私の妻はロシア人だ。多くのウクライナ国民を殺害するロシア人には怒りを感じる」といって、ロシア出身の妻と離婚した、といった話は聞かない。

両国民は一緒に共存することを願っているが、戦争の被害者側にあるウクライナ人には、「この時にロシア人と和解を呼びかける言動はロシア人の戦争責任を曖昧にするだけだ」という思いがどうしても強くなるのだろう。

同じことが今年4月15日の復活祭の聖金曜日の行事の中で起きている。ローマのコロッセオで2000年前のイエスの十字架の受難を再現した式典「十字架の道行き」が行われた。そこでローマに住むウクライナ人とロシア人の2人の女性が十字架をもって共に行進しながら、ウクライナ戦争の終結をアピールしたが、ウクライナ側から、「ロシア軍が戦争犯罪行為を繰り返している時、ロシアとの和解、連帯を演出することは良くない」といった声が出てきた。

バチカン側は対立する両民族の和解を演出することで、イエスの教えをアピールできると考えたのだろう。しかし、実際はウクライナ側から批判や非難の声が出てきたのだ。平時ではなく、戦時だからだ。平時の論理は戦時では通用しないばかりか、相手側に怒りを与えることにもなるのだ。

それでは、「いつ」になったら両者に和解、連帯を呼びかければいいのか。「いつ」だったら、ウィーンのポスターは問題なく、復活祭の式典「十字架の道行」で物議を醸さなくなるのだろうか。侵略者の罪科を相対化させないために、戦場から砲弾の音が消えて停戦が実現してからだろうか。

「和解」や「連帯」という言葉は高貴な内容なので、政治や外交の世界では好んで使用されるが、ウクライナ戦争の場合、残念ながら、それらの言葉を使うには時期尚早なのかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年5月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

文・長谷川良/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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