スペイン・バレンシアで事業開始

スペインに家内と戻ったのは1978年のことであった。家内は大阪での生活が気に入ってスペインに戻るよりも日本に留まることを希望したほどであった。しかし、筆者の希望を受け入れてバレンシアに戻ることに同意してくれた。

スペインで最初に成立させたビジネスとは
(画像=スペイン・バレンシア fcafotodigital/iStock、『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

最初は家内の両親が住んでいたマンションが空いているたのでそこで住むことに決めて、そのリビングルームを事務所にした。そこにはデスクとオリベティーのタイプライターを置いていた程度であった。その後、玩具メーカーバルトイ社の社長がバレンシア市内のマンションから郊外に引っ越すことになってそのマンションを貸してくれた。筆者がそこで事務所として必要だったのは広いリビングルームだけであった。それ以外の部屋は空いたままになっていた。それも非常に安く貸してくれた。しかし、半年くらいして、そこをメキシコ領事館に貸すということになった。

そこで、筆者は同じくバレンシアに住んでいた(今も永住している)日本人の木村さんのマンションの1部屋を事務所にした。当時はまだテレックスはもっていなかったので、バルトイ社の株主の一人でカーテンやベッドカバー、靴などを輸出していた商社のテレックスを利用させてもらった。テレックスの原稿を受付の秘書に渡しておけば彼女がそれを発信してくれた。また受信があった場合はそれを取りに行った。

しかし、最終的に筆者が住んでいる町にマンションを購入して、その一室を事務所にした。狭い部屋であったが、そこにはテレックスもセットした。デスクは筆者と家内の弟ビクトルのデスクの二つだけであった。弟は電気工学の大学院を卒業していたが、他に職を探すことなく筆者の事業に参加した。

最初に成立したビジネス

筆者が退職後も円満な関係をもっていた因幡電機と最初に成立させたビジネスはバルトイ社の玩具に必要な電子回路を因幡から輸入することであった。

バルトイ社と筆者の縁ができたのは、家内の友人がそこに勤務していた関係からだ。筆者が留学していた時に社長のエリセオ・オルディニャガ氏の依頼で日本の玩具雑誌の翻訳も手掛けた。また、日本の玩具社とローヤルティーの契約をする際にも社長が訪日するのに筆者が通訳で同伴した。その費用はバルトイ社の方で負担してくれた。

そのような縁から筆者が大学の4年生の時から因幡に勤務するようになってからもバルトイ社とは関係を維持していた。社長のオルディニャガ氏はマーケティングが専門でバルトイ社を辞めた後は、バレンシア市内のビジネススクールでマーケティングの講師の仕事をし、またマーケティング専門のコンサルタント事務所も開設した。筆者にとって彼は恩師のひとりである。

韓国からカーステレオを輸入

その後、ある縁を利用して韓国の大宇からカーステレオの輸入を始めた。最初に輸入した台数は200台だった。それを筆者のパートナーであるビクトルがバレンシア県にあるカーディラーに営業して回った。修理などアフターサービスはビクトルの友人で電気関係の修理屋が担当した。2回目も同じ台数を輸入した。

ところが、市場では密輸入品が溢れ出し正規の輸入で関税を払っての販売では採算が取れなくなっていた。大量に買い付けして安く仕入れる以外にビジネスが成立する可能性はなかった。大量に輸入するには資金が要る。その為の資金は我々にはない。大量に仕入れて捌くにはビジネスの規模を広げて販売代理人も増やすことが必要になる。ところが、当時から販売は容易だが売掛金を回収するのは大変だった。買ったものを支払うことが怠慢な傾向があった。要するに、売ってもなかなか支払ってくれないということだ。その為にも余分な資金が必要だ。ということで、この輸入ビジネスは放棄することに決めた。

また、輸入のライセンスが中々下りなかったのでマドリードの商務省の輸入を認可する担当部長に輸入ライセンスを早く出すように陳情にも行った。これは筆者だけではなく、多くの輸入業者が当時同じようなことをして商務省を訪れていた。

輸出できる商品探し

カーステレオを輸入販売している時も輸出できる商材を筆者は探し続けた。オルディニャガ氏がマーケティングで指導していた企業の中で絨毯のメーカーがあった。アリカンテ県のクレビリェンテ市は絨毯の生産で著名な地域であった。そこの1社を訪問した。また、筆者のテレックスの原稿を発信してくれていた会社がカーテンやベッドカバーを専門に中東やヨーロッパで大規模に輸出していた。これらの商品の日本への売り込みもやった。

当時はまだ1980年代初頭で、まだ売り込みにはサーキュラーが通用する時代だった。これらの商品を紹介すべく徹底的に日本に売り込みのサーキュラーを郵送した。僅かに取引に結びついたが、どれも柱にできるビジネスではなかった。

文・白石 和幸/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?