沖縄返還 日本の核武装とノーベル賞

沖縄には米国統治時代に核が配備されていた。1969年、当時の米国大統領リチャード・ニクソンと日本の首相佐藤栄作が「沖縄の核抜き・本土並み返還」に合意した。併せて日本は「非核三原則」をテーゼとして打ち出した。これらのことを功績として、佐藤は1974年にノーベル平和賞を受賞した。非核三原則という建前の裏で、沖縄返還の際、有事の際に日本に核を持ち込むという密約が交わされていたことも知られている。

ますます低レベル化する日本の核武装論
©️ANN NEWS(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

米国では原子力潜水艦は1950年代には実用化し、SLBMは1960年代の末期までには、トライデントの前任型であるポセイドンC-3が完成し、1971年3月には実戦配備可能になった。そのことを待っていたかのように、1972年5月15日に沖縄は〝核抜き〟返還された。

原潜とSLBMのセットがあれば、米国の戦略上は日本の国土に核を配備する必要がなくなったのである。

NPTと核武装床屋談義

1970年3月に核拡散防止条約(NPT)が発効すると日本の核武装の道が事実上閉ざされる(日本は1970年2月に署名、1976年6月に批准)。そうなれば国際規範上核保有を有することが許される国はそれまでに核開発を終えた米ソ英仏中の5カ国に限定される。

沖縄返還に向けて動き出した頃、日本の独自核武装が真剣に検討されていた。とりわけ科学技術的に日本のそれだけの開発能力があるのかが密かに検討されていた。それは当然のこととして、物理学者や工学者を巻き込んだものでなければならなかった。核爆発装置という〝ものづくり〟の技能が伴わなければ、核武装は完遂できない。

2006年に北朝鮮の核実験の成功を受けて、当時巷の核武装論議が盛り上がった。私はとりわけ西部邁氏の『核武装論』に注目し紐解いた。精神論に終始し、具体的な策がない。唖然とするしかなかった。

精緻な軍事的戦略とそれを実践展開するためのものづくりの具体策と実現能力がなければ、〝床屋談義〟の域を出ない。

NPTから50年、北朝鮮の核実験からほぼ16年、日本の核武装論はますます低レベル化していると感じる。

文・澤田 哲生

文・澤田 哲生/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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