ソ連時代の民族融和を懐かしむ人も
もともと別の民族でも国民でもなかったものがこんな風になるのは痛ましいことだ。そして意識の上でも、行き来についても困難になった家族がロシアにもウクライナにも無数にいる。
それをもたらしたのは、さまざまな野望に踊らされた人々の、過剰な民族主義・分離主義、少数派に転落した元の多数派への差別と抑圧である。
日本をはじめどこの国でも、特定地域の人を別民族に仕立て上げる動きがあると、こういうことだってありうるのである。民族主義の問題は、だいたいどちらかが100%正しいということは希だ。ほとんどの人はどちらかの応援団になるが、そのこと事態が不幸を生んでいる。どちらかが全面的に正しいということにはなりえない問題なのだ。
プーチンのように、ウクライナの民族主義をナチス呼ばわりするのは、これも行き過ぎで困る。しかし、過度の民族主義・国粋主義を批判する、あるいは危惧することは何も間違っていないと思う。これを放置すると世界に不幸を撒き散らしかねない。
そういう意味で、社会主義のもっていた国際性を懐かしむ人もいる。社会主義というのはすっかり評判が悪くなったが、国際性という面についていうと、良い意味で多くの民族が互いを尊重しつつ前へ向いて進もうという先進性を持っていたと思う。
あんまり馬鹿で偏狭なナショナリズムのぶつかり合いをしていると、自由世界の論理が本当にいいのかという疑問も出てくる。
どこかの記事に「世界の人口トップ10で、今回の欧米主導の経済制裁に加わっているのは、アメリカだけだ」という話が出ていた。それはひとつには、国家統一を危うくするような論理とは組めないという思いもあろう。
EUの進歩的な人もスペインにおけるカタルーニャ分離運動にたいするスペイン政府の強硬姿勢についてはダブルスタンダードになる人も多いし、米国南北戦争は連邦は分離不能という論理で戦われた。
しょせんはご都合主義だ。
文・八幡 和郎/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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