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前漢はじめに用いられた暦法
太初暦の誕生

「音」で暦を計算していた!?古代中国の「暦算術」がすごい
(画像=Credit: depositphotos、『ナゾロジー』より引用)

優れた暦法を生み出した国といえば、皆さんはどの国を思い浮かべるでしょうか。

紀元前1世紀にはユリウス暦を考案し、16世紀にはヨーロッパ、ひいては世界中で用いられるようになったグレゴリオ暦を考案したローマ、イタリアの名を挙げる人もいれば、紀元前数千年もの昔から冬の大三角形の一角を成すシリウスを観測し、1年が365日であることを導き出していたというエジプトの名を挙げる人もいるでしょう。

しかし、暦法の計算術、すなわち、暦算術に対し、他のどの国よりも情熱を傾けていたのは、他でもない中国でした。

中国では、有史以前、神話で語られるほどの昔から清朝末期の太平天国の乱に至るまでの間、実に102もの暦法が生み出されたと言います。

中でも、最も暦算術が発展を遂げたのは2000年以上前の漢代の頃でした。

前漢はじめに用いられた暦法

「音」で暦を計算していた!?古代中国の「暦算術」がすごい
(画像=顓頊暦の名前の由来である顓頊帝 / Credit: 『歴代君臣図像』、『ナゾロジー』より引用)

中国では有史以前からかなり正確な暦法を導き出し、その暦法を広く用いていたと考えられていますが、それを証明する決定的な資料は残っていません。

しかし、中国の正史に数えられ、前漢代の歴史が記されている『漢書』の芸文志には、前漢代には『黄帝五家暦』『顓頊暦』『顓頊五星暦』『夏殷周魯暦』『漢元殷周牒暦』といった暦法に関する書籍が存在していたことが記録されています。

これらの書物は全て散逸してしまい、その全貌は明らかにされていませんが、秦代から前漢代はじめ頃までは、これらの書物に記録されていた「顓頊暦(せんぎょくれき)」という暦法が用いられていたようです。

顓頊暦は、月の満ち欠けを基軸に据えつつ、太陽の動きを加味して閏月を設ける太陰太陽暦でした。10月を1年のはじまりとし、数年に一度、年末である9月に閏月を設けるのが大きな特徴として挙げられます。

顓頊暦は19年に7回閏月を設けるという方法を採用していましたが、これは古代ギリシャの数学者であるメトンが紀元前433年に提案したという「メトン周期」と合致しています。

そのため、ギリシャから中国にメトン周期が伝わったという説を唱える学者も少なくありません。

しかし、現存する断片的な資料に鑑みるに、中国では春秋戦国時代の中葉、すなわち、紀元前600年頃には既に19年に7回閏月を設けるという方法を採用していたようです。

このことから、中国の暦法はギリシャよりも一歩リードしていたと言えるでしょう。

太初暦の誕生

顓頊暦は比較的精度が高い暦法でしたが、それでも年月を経るごとに深刻なズレが生じるようになってしまいます。

そこで、紀元後104年、前漢第7代皇帝である武帝の時代に至り、暦法が改められました。採用されたのは太初暦と称される鄧平らによって生み出された暦法です。

太初暦の大きな特徴としては、「八十一分法」の採用が挙げられます。

顓頊暦では1か月を29と940分の499日と定めていましたが、鄧平はこれを複雑すぎると考え、1か月を29と81分の43日と簡略化したのです。

ちなみに、鄧平が81を分母と定めたのは、9寸の律管が冬至の気候条件下で発する「黄鐘」と呼ばれる音に由来すると考えられています。

音と数学の連関については、紀元前6世紀頃に古代ギリシャの数学者であるピタゴラスが発見したことで有名ですが、中国でも『史記』律書をめくれば明らかであるように、音と数学は切っても切れないものとして考えられていました。

鄧平はさらに、音を歴算術にまで応用したというのですから、本当に驚きです。

「音」で暦を計算していた!?古代中国の「暦算術」がすごい
(画像=Credit: depositphotos、『ナゾロジー』より引用)

一方、太初暦は「三統暦」という名でも知られています。

三統暦を唱えたのは前漢末期に活躍した劉歆(りゅうきん)という多才な学者であり、そのために三統暦、すなわち、太初暦を考案したのは劉歆と考える人は多いようです。

しかし、劉歆は鄧平の説いた八十一分法に補足説明を付け加えたに過ぎず、太初暦を考案したわけではありません。

しかし、人々に太初暦を浸透させることができたのは劉歆の尽力によるところが大きいというのは事実です。

あまりにも科学的すぎる鄧平の説は、そのままでは当時の人々を説得し得ないものでした。

ところが、劉歆が鄧平の説を中国古来より受け継がれてきた五行説に当てはめて解釈したことによって広く受け入れられるようになり、改暦にまでこぎつけたのです。